ゆかりの屋敷 整備進行中
福沢諭吉に師事し、慶應義塾医学所を開設して初代校長を務めた紀の川市出身の医学者、松山棟庵。その功績顕彰の拠点とするため、棟庵の兄、管吾が桃山町に建てた診療所兼自宅の屋敷「黄雨楼(こううろう)」と庭の整備が進んでいる。中心になるのは、管吾の子孫で和歌山市に住む松山忠弘さん(60)。2月に「尊生(そんせい)舎・松山棟庵プロジェクト」を立ち上げ、「建物を棟庵らの資料館とし、青少年育成を中心に癒やしと学び、交流の場にしたい」と願っている。
棟庵は江戸末期の1839年生まれ。京都でオランダ医学を学び、現在の湯浅町で診療所を始めた。欧米医学修得を目指し横浜へ移った66年に福沢諭吉と出会い、門下生となってイギリス医学に取り組み始めた。福沢がアメリカから持ち帰ったフリントの著作『内科全書』を棟庵が訳した『窒扶斯(チフス)新論』は、日本初の英語医学書翻訳として知られる。
福沢は73年、イギリス医学を教える慶應義塾医学所を開設。棟庵は初代校長兼教師として指導に当たった。75年には附属診療所「尊生舎」を開設。医学所は7年で廃校になったが、東京慈恵会医大の源流として引き継がれた。同時期には、現在の日本医学会や医師会の前身団体も創立している。
屋敷は棟庵らの生誕地にあるものの、建築は棟庵が故郷を離れた後のため、ここで生活はしなかった。それでも帰郷の際はよく訪れたという。
忠弘さんは子どものころ、祖母が住む屋敷でよく遊んだ。だが1970年代半ば、祖母の引っ越しで空き家となり、90年代初めからは完全に無人。壁や床は崩れ、柱はシロアリに食い荒らされた。
この現状に、「地元の偉人ゆかりの地を朽ちさせてはいけない」と忠弘さんが3年前から庭の雑木、雑草を刈り、屋根や壁の修繕に力を入れ始めた。今年のプロジェクト立ち上げ後は、棟庵の功績を学ぶ南風(なんぷう)講座を始め、パンフレットも制作した。
ただ、現時点では整備完了のメドはまったく立っていない。それでも、完成時には和歌山の親類とやり取りした書簡などゆかりの品の展示や、広い敷地を癒やしの公園とすることを視野に入れる。「将来は『心と体の健康を目的とする青少年育成拠点』として活用したい。できれば、登録有形文化財として残せれば」と意気込んでいる。
(ニュース和歌山/2024年11月16日更新)