江戸時代から桃の栽培が盛んな紀の川市桃山町。今も桃畑が広がる紀の川沿いの段新田、段地区一帯から桃の木が姿を消した時期があった。太平洋戦争末期、陸軍飛行場とするため、農家が丹精込めて育てた木が全て引き抜かれ更地にされた。作業には地元の小学生や女性も駆り出されたものの、滑走路の整地が終了したのは終戦を翌日に控えた1945年8月14日。軍用機を一度も飛ばすことのなかった幻の飛行場が桃の里に存在した──。
「ここが全部、飛行場やった。桃の木が一本もない、広っぱやった」。紀の川左岸の堤防から、桃畑を見下ろしながら振り返るのは、宮村正一さん(82)。桃がたわわに実る季節に思い出すのは70年前の光景だ。
終戦の年、宮村さんは安楽川国民学校(現・安楽川小学校)6年生だった。その2年前、4年生のころから先生に連れられ、同級生と桃畑へ足を運んだ。手には運動会で使う綱引き用の綱。それを桃の木にくくりつけ、みんなで引いた。「あのころの先生は怖かった。その先生に『抜け』と言われたら、仕方なかった。当時、1学年が約120人。子どもでも100人が力を合わせれば、すぐ抜けましたよ」。一本一本、根こそぎ抜き、その場で燃やした。
その作業には子どもだけでなく、地域の女性もあたった。桃山町調月在住で、桃山歴史の会会長の山下重良さん(80)は「当時、大人の男性は徴兵されていた。安楽川村の隣、調月村からも国防婦人会が駆り出され、汗を流しました」と語る。
旧桃山町が発行した『桃山町誌 歴史との対話』によると、飛行場の滑走路は全長1500㍍、幅100㍍。滑走路から南へ誘導路をつなぎ、竹やぶに飛行機を隠す計画だったようだ。「この隠せる場所があるということが、ここに飛行場を造った理由では」と山下さんは推測する。
2年ほどで桃畑が姿を消し、滑走路の整地が完了したのは終戦前日の45年8月14日。ここから軍用機が戦地へ飛び立つことはなかった。しかし、終戦直後のある日、1機の練習機が着陸した。安楽川村出身の故・川南芳三氏が大分航空基地から帰ってきた。宮村さんは「みんなで見に行った。河原に着陸するつもりで戻ったそう。練習機は布をはった木製のものでしたね」。
戦後、農家の努力で桃の木を植え戻し、紀の川沿いには桃畑が復活した。「飛行場があった辺りは元々、河原だったんで、排水が抜群。だからおいしい桃が採れるんですよ」と宮村さん。桃畑を見渡しながら、「やっぱりええなあ」。あの戦争の後、70年続く平和をかみしめる。
写真=紀の川沿いの桃畑を見渡し、飛行場のあった70年前を振り返る宮村さん
(ニュース和歌山2015年8月8日号掲載)