名草戸畔

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 名草山は、悠久の時を超えて和歌浦の海岸に今も美しい姿を見せています。

 明治時代以前まで、現在の和歌山市一帯と海南市の一部は「名草郡」と呼ばれていました。地名が変わっても、名草山だけは古い地名がそのまま残ったのです。「名草」の地名の由来は古く、『日本書紀』などにもその名が見えることから、平安時代以前から存在したと考えられます。

 『日本書紀』第3巻の「神武東征」の項には、「6月23日、軍、名草邑(むら)に至る。則ち名草戸畔といふ者を誅(ころ)す」という一文があります。この記事によると、後に初代天皇となる神武の軍がやってくる以前から、名草には名草戸畔という先住民が暮らしていたようです。戸畔とは、女性首長を指す古い言葉です。「名草戸畔」とは「名草村の女性首長」という意味です。

 名草山とその周辺には、名草戸畔にまつわる伝承が数多く残されています。「名草戸畔は名草山を神奈備山(かんなびやま。神様の山)として祀っていた」「名草山の麓、吉原が拠点だった」「名草戸畔は名草地方一帯を治める女王だった」といった物語です。これらの伝承は文献には書かれずこの土地で共有され、口伝えに語り継がれてきました。

 名草山周辺には、名草戸畔の足跡を思わせる痕跡も残されています。明治以前まで、名草姫・名草彦を祀る「中言神社」が名草山をぐるりと取り囲むように15社も鎮座していました。今でも、名草戸畔の拠点と伝承される吉原の中言神社をはじめ3社が存在しています。また、秋月の「日前神宮・國懸神宮」では、名草山で採れる榊を祭祀に使っているそうです。第57代紀国造、紀俊文氏が鎌倉時代に「名草山 とるや榊のつきもせず 神業しげき 日の隈の宮」と歌に詠んだことも知られています。仏教導入後、770年に紀三井寺が建立されたのも名草山が古代の神奈備山だったからでしょう。みなさんが何気なく眺めている名草山とその周辺にはそんな伝承が今なお残されているのです。

 (今号からなかひらまいさんが名草戸畔の伝承を毎週土曜号で紹介します)

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 名草戸畔伝承をもとにした劇団ZEROの公演『名草姫』が10月10日(土)午後1時と5時、和歌の浦アートキューブで開かれます。1000円。チケットは和歌山市民会館などで販売中。また、なかひらさんの著書『名草戸畔〜古代紀国の女王伝説』(1800円)も好評発売中です。

 なかひらまい…千葉出身。イラストレーター、作家。著書に『スプーと死者の森のおばあちゃん〜スプーの日記』など多数。

(ニュース和歌山2015年8月29日号掲載)