終戦の報(しら)せを受け取れず、ルバング島のジャングルで30年間戦い続けた故・小野田寛郎氏。小野田氏のご実家は、海南市小野田の「宇賀部神社」であることをご存知でしょうか。「宇賀部神社」には、名草戸畔の頭を祀るという伝承が残されています。「宇賀部」は通称「おこべ」と呼ばれていますが、これは頭を表す「こうべ」から来ているともいわれています。
その小野田さんから、前回紹介した小薮繁喜さんの台本とも違う名草戸畔伝承を伺うことができました。「名草軍は一度、神武軍を追っ払った。自分らは負けていないと思っている」
小野田さんのご実家は、代々、神社を守る宮司家で、戦国時代では神社の建つ山の頂上にある小野田城の城主でした。そうした歴史のある旧家は土地の歴史を来客に話して聞かせるなど、地域の文化を守る役割を担っていたと考えられます。それだけに、古い伝承が長きにわたって語り継がれてきたのでしょう。
小野田家では、「神武軍は名草戸畔に追い払われたため、仕方なく熊野をまわって奈良に移動した」「しかし名草戸畔は戦死、最終的には王権側が勝利し、名草は降伏する形となった」という物語が伝わってきたといいます。小薮さんの台本の降伏説は、家庭や学校でそのように教えた時期があったということでした。戦前まで、名草地方ではよく知られた伝承だったそうですが、文字に書かれない「口伝」のため、今では知る人は残り少なくなっています。2014年1月16日に91歳で亡くなられた小野田寛郎さんは、江戸末期の生まれの祖父・儀平氏と、明治生まれの父・種次郎氏から聞いた「生きた口伝」を語ることのできる最後の伝承保持者でした。
寛郎さんは生前「歴史は立場によって変わるものだ」と語っていました。確かに、名草の立場から見れば神武軍に負けていない、降伏した、といった歴史観があっても間違いではないように思います。
名草戸畔伝承は、史実かどうかの真偽は別にして、『日本書紀』に書かれたことも物事のひとつの側面でしかないことを教えてくれるのです。(毎週土曜号掲載)
写真=宇賀部神社
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(ニュース和歌山2015年9月12日号掲載)