明治10年(1877年)に建てられた和歌山市今福の郭家住宅洋館。建築に当たった郭百輔氏が残した文書の一部が解明され、建築時の様子や、郭氏が設立にかかわった同市七番丁の和歌山医学校兼小病院に関し、新たな発見があった。建築史家の西山修司さんは「文明開化期の洋館は全国的にも貴重。文書から、当時の他の洋風建築との関連が明らかになる可能性がある」と話す。30日(日)に開く郭家文書報告会で検証内容を伝え、保存を呼びかける。
洋館は、元紀州藩の医師だった郭氏が、軍医を経て開業するにあたりコロニアル様式で建築した。部屋の広さの割にベランダが大きいのが特徴で、イギリスやオランダが蒸し暑い東南アジアやインドに進出する中で造り上げた様式だ。洋館は日本人大工が在来工法で建て、医院の待合室や投薬室として活用。洋館奥に診察を行った和風の部屋があり、他に数寄屋、土蔵などが配置された。数寄屋は陸奥宗光の生家の一部を移築したと伝わる。現存する建物は、1997年に登録有形文化財となっている。
解明された文書類は、同家の蔵に保管されていた。西山さんが県文化遺産課に勤務していた2010年ごろから百輔氏のひ孫、幸子さんの了解を得て文書を調査し、分野別に仕分けた。600点以上に及び、この夏にも改築日誌など5点を見つけた。内容は、建築関連110点、医学関連80点、経歴30点、手紙など430点に分かれる。
近代建築が専門の西山さんは建築関連の文書を検証。「『大ヒラキ十四本』『ガラリ戸十六本』など建具納入書類、『ペン塗師(ペンキ職人)』が木目塗りをしたと報告する書類があり、現在の家の仕様と合致します」。洋館の設計図や郭氏がイメージを伝えたような書類は見当たらないが、「神戸から呼んだ大工が施工したと伝わっており、大工の名前が判明したので裏付けがとれるかも」と期待を寄せる。
一方、和歌山医学校兼小病院は、1872年に和歌山県権令(知事)に着任した北島秀朝氏が西洋医学を取り入れた医学校と病院の設立を提案し、これにこたえた郭氏ら有志が設立に動いた。
郭氏が、医学校で教える科目や、病院でどんな治療をするかを書いた文書、「病院医学校設立法」「長官投薬記」と題する文書が残る。解読を託された和歌山市立博物館の髙橋克伸学芸員は「漢方から西洋医学への変遷を物語る貴重な文書。郭氏は和歌山の医学を近代化する役割を担った一人と分かる」ときっぱり。詳細はこれからだが、医学校の建物もコロニアル様式で郭家と似ており、検証を進めれば、つながりが分かる可能性はある。
医学校は廃校となったが、病院は今の日赤医療センターに引き継がれ、明治末期、現在地に移転した。西山さんは「文書から郭家洋館の一部が明らかになりました。ただ、近年は傷みが激しく、郭家個人で維持するには限界がある。行政が保存できないか」と訴える。
◎報告会「郭家文書からわかること」…30日午後2時、同市今福の今福地区会館。600以上の文書を元に、和歌山大学の藤本清二郎名誉教授が「郭家文書の概要」、髙橋学芸員が「郭家 紀州藩御典医から近代の医師へ」、西山さんが「新築時の郭家洋館」と題し話す。無料。西山さん(073・445・3633)。
(ニュース和歌山2016年10月1日号掲載)