武芸として奨励した打毬
九月十七日に東京都港区で行われた赤坂氷川神社の祭礼では、吉宗将軍就任三百年を記念し、和歌祭の行列が特別参加して街を練り歩きました。赤坂氷川神社は吉宗が藩主時代から信仰し、将軍就任後の享保十五年(一七三〇)に現在の地へ遷宮させた神社として有名です。江戸時代、紀州藩の中屋敷は現在の迎賓館・東宮御所のある赤坂御用地に位置しており、赤坂は紀州藩と縁の深い地域でした。
この資料は、紀州藩中屋敷の庭園「西園(さいえん)」を坂昇春(さかしょうしゅん)が描いた画帖で、四季の風景十五図が収められています。大名庭園を視覚的に知ることができる貴重な資料であり、和歌山市指定文化財です。この画面は「青崖埒打毬之図(せいがいらつだきゅうのず)」と題され、馬場で打毬(だきゅう)というポロに似た競技をする武士が描かれています。紅白の毬を奪い合う表情は真剣そのもので、緊張感が漂っています。
吉宗は打毬を武芸として再興し、諸藩に奨励したと言われています。武芸や武備への関心が薄れる時代の中、将軍に就任した吉宗は、生類憐みの令以来廃止されていた鷹狩を再興するなど武芸の奨励に努めたのです。(和歌山市立博物館学芸員 佐藤顕)
(ニュース和歌山2016年10月8日号掲載)