高野山にほど近い紀美野町東部の毛原地区。この集落で三味線を教えるため、約600㌔離れた福島県川俣町から毎月通う人がいる。日本民謡協会認定三味線教授の鴫原淳子(しぎはら・あつこ)さん(59、写真左)。東日本大震災後、紀美野町で2年間、避難生活を送った縁で始まった交流は、福島に戻ってからも4年間続いている。あの震災からきょうで丸6年。「ありふれた言葉ですが、紀美野町は第二の故郷。皆さんが必要としてくださる限り、指導を続けたい」とやさしくほほえむ。
「この音を正しく出すのは難しい。練習が必要ですよ」「もう1回、『はー、よいしょ』から行きましょう」。毛原宮集会所に集まった教え子を前に、着物姿で指導する鴫原さん。名前の〝淳〟と三味線の〝味〟から、会の名は「あつみ会」とした。
福島県出身で、三味線歴38年。5段階ある日本民謡協会の指導者資格のうち、最高位の教授を持つ。縁もゆかりもなかった紀美野町に来るきっかけは東日本大震災。鴫原さんが住む地域は避難指示区域に含まれなかったものの、福島第一原発からの放射性物質が気になり、小学生だった息子と自主避難した。「息子の友達のお母さんが紀美野町に親類がいらっしゃって、先に避難しており、勧めてもらったんです」。翌年、夫も紀美野町へ。「近所の人が畑で採れた野菜や手作りのおかずをおすそ分けしてくれ、勤めた工場でも親切に教えてくださった。皆さん、快く迎えてくれました」
地区の人たちとの結びつきを深めたのが、三味線だった。小学校での演奏を申し出たところ、伝え聞いた地域住民から指導を頼まれた。毛原地区では毎年8月15日、三味線演奏と歌に合わせ、扇を手に舞う扇踊りが伝統になっている。しかし、三味線の指導者が08年に病気になって以降、演奏はCDに録音したものを流していた。あつみ会の西茂代表(68)は「メンバーはほとんど三味線の初心者。それを1から丁寧に教えてくれました」。盆に披露する『地節』『伊勢音頭』の2曲は楽譜が残されておらず、鴫原さんがCDを聴き、譜面に起こした。
震災から2年が経過した13年3月、鴫原さん一家は川俣町へ戻った。しかし、毛原の人たちとの交流は終わらなかった。毎月1回、指導のために訪れた。師匠の貴重な教えを聞き漏らすまいと、録音機を持参する会員、全体練習に加え、個人レッスンを依頼するメンバー…。「皆さんの一生懸命にこたえなければならない。続いているのはその思いだけなんです」と鴫原さん。
熱心な指導が実り、今では盆踊りでの生演奏が復活。年4回、地区内の寄席で演奏を披露し、秋に開かれる紀美野町の文化祭へ出演するほか、高齢者施設への慰問も行う。会員の一人、西澤さち子さん(68)は「毎月来て優しく教えてくださるので、近くにいるように感じますが、福島から毎月通われるのは本当に大変だと思います」とただただ感謝。西代表は「師匠が指導を引き受けてくださらなかったら、扇踊りの存続は無理だった。若い会員を増やし、伝統を継承していきたい」と語る。
鴫原さんの印象に深く残るのは、昨年6月に初めて開いたおさらい会。会員が1人1曲、弾きながら歌った。「1人での弾き語りは難しいんですが、皆さんの頑張りに感動しました。これからも毎年6月の恒例にしようと思ってるんです」。教え子の成長は、今後も自分の目で見守っていく。
写真右=あつみ会のメンバーを熱心に指導する鴫原さん
(ニュース和歌山より。2017年3月11日更新)