和歌山城にようやく主(あるじ)を迎えました。1600(慶長5)年のことです。徳川方の東軍と豊臣方の西軍が天下をかけて激突した関ヶ原合戦後、功績を挙げた24歳の浅野幸長(よしなが)が、37万6千石で紀伊国領主となって和歌山城に入りました。

 入城後の幸長は、城の増改築に取りかかりました。先の桑山氏(城代)の縄張り(設計)をそのまま利用して工事を進めますが、虎伏山の山頂の本丸に天守閣を築き、二ノ丸には御殿を構築するなど、建物の様相は一変します。そして、山麓の岡口枡形を三ノ丸と称して、岡口門が大手門となりました。

 拡張工事はさらに北の方に広がります。三ノ丸の北に蔵ノ丸を設け、その北続きに下ノ丸を配置して、「市ノ橋門」を建てます。以後、和歌山城の玄関は、岡口門のような櫓門だったと言われている市ノ橋門を大手とする北向きの城に変わりました。


 拡張工事は領主の居住空間(現在の二ノ丸)である屋敷へ及びます。屋敷の西(現在の大奥・西ノ丸庭園・山吹ノ渓)一帯の大きな水堀は屋敷を囲みますが、その一角には鶴が舞い降りる優雅な庭園まで造られました。

 庭園は「鶴ノ渓」と呼ばれ、『紀伊国名所図会』には、庭園脇石垣の下に置く鶴の餌入れが描かれています。今も天守閣に、その現物(石)が展示されています。描かれた画と形が一致しているので、より信ぴょう性が感じられます。こうして和歌山城は、堅固な中に優雅な空間が生まれ、戦う城から住む城へ転じていくのです。

 大手門前には、城下町も開かれていきました。現在の裁判所付近から市役所周辺に三ノ丸(丸ノ内)を移して、重臣の屋敷を集め、鷺ノ森周辺に侍屋敷が、そして城北や湊地区、和歌川に沿って人々の住居も集まり始め、城下町が整っていきます。

 和歌山城の主となった浅野氏は、和歌山城と城下町の基盤を固めていくのです。

写真上=鶴ノ渓/下図=「浅野期城郭の曲輪(略図)」(参考)

(ニュース和歌山より。2017年6月3日更新)