岡口門のように、城門の上に長屋風の建物(多門櫓)を乗せた形式を櫓門と言います。

 この門は、浅野氏入城後の構築と考えられていましたが、解体修理の結果、江戸時代である事がわかりました。しかし、城門の構造には、戦国時代の面影があります。江戸時代の櫓門は、敵が門をくぐれば、その上の櫓の床に造られている石落(いしおとし)と呼ばれる穴から、攻撃ができる仕組みや、硬い戸板に筋鉄が張り巡らされた頑丈なものが大半でした。ところが、岡口櫓門にはいずれの構造もありません。窓下の壁に武器架けが並び、窓から一斉に鉄砲で攻撃できるようになっています。


 岡口門の扉にも戦う時代が感じられます。門扉は、上部透かし扉と言い、上半分が格子になり、扉を閉めても外を見ることができます。和歌山城の門扉は、いずれも上部透かし扉ですが、岡口門は他の扉より格子部分が広く造られています。扉を閉め、内側に閂(かんぬき)をして準備した台に乗れば、透かし部分から鉄砲や槍で外の敵を威嚇できる高さにしてあるのです。

 さらに、門の正面南側に、岡口門続(つづき)櫓の石垣が前方に張り出しています。これは敵が岡口門前に近づけば、続櫓と櫓門の窓と透かし扉の三方から鉄砲で、威嚇することができます。岡口門は、戦いを意識した守りの堅固な門だったのです。おそらく、江戸時代に、元の姿を尊重して建立したのではないでしょうか。

 堅固な守りは、岡口門だけではありません。鉄砲や弓矢で威嚇できる四角い穴を開けた狭間(さま)付きの土塀が岡口門に接して造られています。これを岡口門続塀と言います。

 水堀を渡って来る敵に対し、狭間から鉄砲で威嚇するための土塀です。狭間も岡口門の造りも近づけば危険だと思わせる心理作戦で、城に近づけさせない守りの知恵だったのです。

 岡口門と同続塀は、1957(昭和32)年に国の重要文化財に指定されました。

写真上=岡口門と狭間付き続塀/同下=岡口門透かし門扉

(ニュース和歌山/2017年6月17日更新)