携帯電話を使わないで恋愛はどう展開するか。物語を通じた社会実験のおもむきがあるビートたけしさんの小説『アナログ』。たけしさんの『たけしくん、ハイ!』『少年』を愛読した身としては「今までは口述。今度は自分で書いた」との言葉に期待と苦笑半分で手にとりました。
ふと出会った男女が携帯番号もメールアドレスも教え合わず、毎週木曜の夕方に喫茶店で落ち合う約束をする。都合がつかず、行けなくても連絡せず、次の木曜を待つ。さて…というお話です。
話は自然に展開し、楽しんで読み進めます。真面目で純粋な主人公が、女性と会える木曜の夕方を待ちわび、時間を確保しようと忙しく働く様が好ましい。時間に間に合わせようと焦る描写に「携帯のない時代はこんなことあったな」と懐かしく思いました。
NHKのインタビューでたけしさんは、携帯を使わないという設定について「すぐに相手と会えない。そのことで相手のことをもう一度思う、そんな時間ができる」と話していました。ふと戦後の文芸批評家、福田恆存(つねあり)の著書『人間・この劇的なるもの』が頭をよぎりました。
同書は「劇的であること」を人間の基本的な欲求のひとつとして論じた名著です。その中で現実のままならなさにふれ、「親しい友人を訪ねてのんきな話に半日をすごしたいと思う時がある。が、行ってみると、相手はるすである。そして孤独でありたいと思う時にかれはやってくる」と記すくだりがあります。
絶妙とも言えるタイミングで来る行き違い、望まぬ偶然があって皮肉にも日常のドラマ性は高まります。評論家の坪内祐三さんは本の解説でこの部分を拾い、「携帯のない若い頃、約束の場所に異性が時間通りにやってこないとドキドキした。そういうドキドキのなくなった今の若者はある意味で不幸」と言います。
簡単につながれることで失われた〝間〟があります。それは相手を思いやったり、気をもんだりと、携帯があれば、ただの無駄かもしれません。しかし、そのひと時は相手と近づき、遠ざかることをより味わい深くします。広がった現代の便利をカッコにくくってこそみえる、生きることの奥行き。『アナログ』はそこをのぞかせてくれます。
「面倒臭いな」と若い人は思うでしょうが、回り道は時に平板を避け、豊かな物語を引き寄せると知っておいていいでしょう。(髙垣善信・本紙主筆 毎月第2土曜掲載)
(ニュース和歌山/2017年11月11日更新)