三年坂を東進して、城内駐車場に入る手前に「高櫓台」の高くて大きな石垣「高石垣」が控えています。江戸時代、この台上に櫓は築かれていなかったようですが、その櫓台の稜線は見事で、今さら語るまでもないでしょう。
岡口門をくぐった北(右)の方にも高櫓台と似た大きな「松ノ丸櫓台」の石垣が見えます。高櫓台同様、石垣の稜線に目が奪われます。ここには二層(階)の櫓が建てられていましたから、当時の眺望は今以上に遠くまで及んだでしょう。花崗斑岩(熊野石)を用いて、隙間なく積まれている両櫓台ですが、和歌山城内でこの2ヵ所でしか見られない特徴があります。
石垣には、勾配(傾斜)のあるものとないものとがあります。勾配のある石垣は、お寺の屋根に似ているので「寺勾配」と言いますが、両櫓台のような積み方を「宮勾配」と言います。宮勾配は、石垣の勾配が上にいくと垂直になっていく積み方で、この部分を「反り」と言います。反りがあることで、忍びの者でも登れないため「忍び返し」、あるいは「武者返し」などと呼ばれています。
この反りを持つ高櫓台の石垣は、『南紀徳川史』に宝永6(1709)年に普請したと書かれています。松ノ丸櫓台も同じ積み方ですから同時期と思われます。ともに高さ約16㍍と高すぎて、反りの確認が難しく、櫓台の影から判断することもあります。
高櫓台には、もう一つ興味深いものが残っています。写真では見えませんが、同櫓台の天端石(最上部)の角3ヵ所に、蝶ネクタイのような(真ん中がくびれた立鼓形)穴があります。これを「チギリ(チキリ)彫り」と言い、「千切」あるいは「滕」と書きます。その穴に鉄や鉛で作られたチギリをはめ込んで、天端石の角石同士を接続させて安定度を高める工法で、「つなぎ手」とも呼ばれます。
このチギリは、先の大戦時に、武器を作る理由で徴集され、今では、穴のみを見るのが大半ですが、和歌浦の海禅院多宝塔を囲む石柵の一部に「つなぎ手」の様子を見ることができます。
写真上=高櫓台の石垣「反り」、下は江戸城井戸のチギリ
(ニュース和歌山/2018年5月5日更新)