和歌山出身の朝日新聞記者 田村 木国
夏のイベントとして定着した全国高校野球選手権大会。前身となる中等学校優勝野球大会を1915年に提案したのが、かつらぎ町出身の新聞記者、田村木国(本名:省三)だ。人気が出始めていたとは言え、中学野球の全国大会をわずか1ヵ月半の準備期間で開催し、大成功をおさめた。一人の記者の提案が、100年以上の時を刻み、野球界に大きな足跡を残すきっかけとなったのだ。
中学野球の全国大会提唱〜10地区の参加校確保に苦心
「夏の甲子園」と親しまれる大会は、大阪の豊中で始まった。箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が13年、豊中駅近くに開設した豊中運動場が会場だった。同社が15年6月末、大阪朝日新聞でスポーツを担当していた木国に活用法を相談したところ、中等学校野球の全国大会を即答したという。
早速、社告で参加を呼びかけるが、ここからが苦心の連続だ。幼いころ木国と同居していた孫の前澤崇さん(70)は、「出場校を集めるのがとにかく大変。つてを頼り参加を呼びかけたものの、『見世物みたいな大会には出られない』と断られ続けたと聞かされました」。
それでも、熱意が実り8月18日、全国10地区の代表校が豊中運動場に集結。和歌山からは、阪奈和代表として和歌山中学(現・桐蔭高)が名を連ね、準決勝まで駒を進めた。
初回の成功が後押しし、翌年の第2回は12地区で予選が行われた。だが、人気が出過ぎたことで、手狭な豊中での開催はこの年限り。第3回から西宮の鳴尾球場に、第10回から甲子園球場に舞台を移すことになる。
会場が甲子園となっても、木国の野球への思いは尽きることはなかった。前澤さんは小中学生のころ、木国に付き添い、春夏の甲子園開会式に駆けつけた。「試合を論じることはなく、開会式の雰囲気を楽しみ、旧知の関係者とうれしそうに話していました」。
木国は、大会を創案したことで51年に日本高校野球連盟から表彰される。58年には週刊誌の甲子園大会特集号に「草創時の思い出」と題する文を寄稿。「来る夏ごとに甲子園球場の一角に立って雲霞のごとき十万観衆を目のあたりにした時、私はいつもホロリとした気持になるのである」と記した。前澤さんは「晩年は杖をついて甲子園の階段を上り、私とそう年の変わらない球児に目を細めていました」と思い出を語っている。
写真=田村木国氏(円内)と、大会創案で表彰された時に贈られたブロンズ像
(ニュース和歌山/2018年7月7日更新)