天守の外観は、時代の流れによって、特徴のある形態に変わっていきます。高層建築である天守は、屋根の数を「層(重)」、内部の床(階)数を「階」で示します。和歌山城天守の場合は、外観の屋根数も内部の床数も同じ「3層3階」ですが、層と階の数が必ずしも一致するとは限りません。外観は3層あるいは4層でも内部が5階あるいは6階・7階の天守もあります。
天守の起源は、諸説が多くはっきりしませんが、織田信長が安土山(滋賀県)に「天主」と名付けた5層7階の高層建築が、大型天守の始まりであったことは間違いありません。それ以後、各地で大きな天守が建てられていきました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、徳川家康の世になっても多くの大名は、新領地で競って大天守を建てて権威を知らしめました。天守の構造も入母屋造りの大屋根に、小さな望楼(物見)を載せた「望楼型天守」から四角い箱を積み重ねた「層塔(そうとう)型天守」が主流になっていきます。
和歌山城に大天守が造られたのは、浅野幸長(よしなが)の入城後で、板張りの黒い天守(「戦国の黒い天守」参照)が建てられましたが、外観は現在の天守とほぼ同型とされています。不等辺四角形の天守台に載る天守1層目は、当然方形ではありません。その上に載る2層目から方形になるので、1層目の屋根の垂木や軒先が上層部とそろわない現象が生まれています。
天守の北面、南面側の1層目の屋根の幅(瓦の枚数)が東西で違い、2層目の東側と西側の壁の高さが違って見えるのです。この現象は小天守も同様ですが、大天守南面2層目の出窓や小天守の屋根に飾られた複数の小さな三角形の破風(はふ)が、それを隠しており、その部分を見つけるのは大変です。
望楼型が多かった時期の層塔型和歌山城天守。その複雑な構造を感じながら見つめれば、当時の知恵と技を結集した大きな芸術作品に見えてきます。
写真=層塔型天守だが、1層目の軒は2・3層目とそろっていない
(ニュース和歌山/2018年8月4日更新)