200人を超える死者を出した「平成30年7月豪雨」は、改めて水害、土砂災害の恐ろしさを認識させた。ここ和歌山も65年前、通称「28(にっぱち)水害」と呼ばれる紀州大水害を経験した。当時18歳、海草郡長谷毛原村(現紀美野町)の森下誠さん(83)は、荒れ狂う貴志川に飲み込まれる故郷を目の当たりにした──。

昭和28年水害経験者 紀美野町 森下誠さんに聞く

 昭和28(1953)年7月17日から18日未明にかけ、梅雨前線による集中豪雨が和歌山を襲った。山間部では24時間で500㍉以上の雨を記録し、各地で堤防が決壊、道路、通信網が寸断された。死者、不明者は1146人、家屋の全壊・流失8600棟、被災者は県民の4分の1にあたる25万人に及んだ。有田川、日高川を中心に被害が大きく、本紙配布地域でも貴志川流域の紀美野町や紀の川市、紀の川沿岸の岩出市で田畑が冠水し、橋が流失した。

 「山の木の葉が全て落ちた、と語られるくらい激しい雨でした」。そう振り返る豪雨は、17日夜に勢いを増した。翌朝、外へ出ると高台にある自宅の眼下に流れる貴志川が濁流になっていた。状況を見張っている間にも水位は上がり、田畑がみるみる冠水、谷にかかる吊り橋のワイヤーも次々にちぎれ、崩壊した。「見たことのない光景に度肝を抜かれました。今までの水害と様子が違うと直感しました」

 300㍍ほど下流の祖父母宅へ駆けつけた時には既に水が床の高さまできていた。家財道具を外へ運び出すも予想以上の早さで水かさが増し、全て捨てて逃げることに。まもなく、3棟あった家はゆっくり浮かび上がり、くるくると回りながら流され、崩れていった。

 祖母を背負い自宅へ向かう途中、県道が土砂でふさがれている。越えようと歩き出した時、「ここでええ、置いてけ」と背中から声がした。あきらめかけた祖母を励ましながら乗り越えて帰宅。家に入ると、祖父が背広に着替え、どっしりと座っていた。「『最後はきれいな姿で』と、覚悟を決めた様子でした」

 流失を免れた自宅は、隣近所の人が集まる避難所となった。泥水に浸かった米は臭いがきつく食べられない。石灰で地面に大きく「SOS」と書き、1週間ほど経ってから、保安隊(現自衛隊)が到着し、ヘリから乾パンや薬品が投下された。村内の橋は全て流され、対岸の人と叫び合ったり、石に手紙をくくりつけて投げたりして連絡をとった。

 隣接する花園村(現かつらぎ町)では大規模な土砂崩れがあり、森下さんの同級生2人を含む98人が生き埋めになった。「当時はまだ戦後で、防災対策や予報技術が未熟だった。避難先を事前に決め、備蓄品を用意する考え方すらなかった」と振り返り、「復旧は全て手作業で、草や木、石が絡まった土砂はスコップが入りにくい。西日本豪雨の被災地を見ていると、『もしもあの時、重機があったら』とつくづく思います」と備えの大切さを強調している。

写真=水害で濁流に流される長谷毛原村の家屋

(ニュース和歌山/2018年8月4日更新)