和歌山城天守が黒色から白色に改修されたのは、10代藩主、治宝(はるとみ)の1798(寛政10)年のことでした。それ以降、虎伏山には、念願の徳川家を象徴する白亜の天守がそびえました。その天守に落雷があり、天守曲輪(中庭)の蔵にあった銃弾用の鉛が溶けて、天守が炎上してしまったのが、次代斉彊(なりかつ)の1846(弘化3)年のことでした。

 この時、隠居していた治宝は、早々に再建天守の木型を作らせます。この木型は、数枚の写真で残されているだけですが、それは五層で江戸城天守のミニ版と言えるものでした。この頃、江戸城に天守はなく、その天守を和歌山城に建てようとしたのでしょうか。あるいは再建許可を得るための手段だったのでしょうか。いずれにしても、この案は幕府に提出されることはありませんでした。

 1615(元和元)年の武家諸法度以後、天守はもちろん五層の櫓も建てられなくなりました。そこで各藩では、装飾性の少ない外観の大櫓を建てて、天守の代用としました。中には、幕府に「天守なし」と届けておいて、外観三層・内部五階の大櫓を建てて「御三階櫓」と称した例もありました。また、御三階櫓を藩内や城下の人々には「天守」と呼ばせた例もあったようです。

 結局、幕府は「復古式天守」で再建を認めました。天守不要と言われた時代に、復古式とは言え天守再建は特例のことでした。

 復古式天守とは、旧型天守で再建することが条件ですから、落雷焼失前の天守で再建許可を得たようです。しかし、一部変更した箇所について、松田茂樹著『和歌山城史話』に、小天守に御殿風の玄関を開き、屋根の「つま」の部分に、青海波紋を打ち出し、櫓に二引両の長押で飾った(「天守を魅せる 破風と石落」参照)などとあり、外観は「徳川の城」をより強く表現したことが分かります。

 もしこの時、新型が許可されていたなら、飾りや石落(いしおとし)のないシンプルな三層天守が建てられていたかも知れません。

写真=虎伏山に建つ大小天守は、徳川家を象徴している

(ニュース和歌山/2018年9月15日更新)