虎伏山から天守の姿が消えたのは、1945(昭和20)年7月9日でした。国宝に指定されていた天守は、1846(弘化3)年の落雷で焼失し、その4年後(嘉永3年)に再建されたもので、戦前まで現存していました。虎伏山に天守が戻ったのは、13年後の1958(昭和33)年10月1日、コンクリートでよみがえりました。
昭和の天守は、江戸期の天守に近い外観で再建されています。設計したのは東京工業大学教授の藤岡通夫氏です。当初は、和歌山県庁の設計者で『和歌山城史話』の著者、松田茂樹さんに依頼したそうですが、天下の和歌山城の設計には、肩書きがあった方が良いと後輩の藤岡氏に譲られたそうです(本人談)。
設計図作成に当たっては、国宝だった天守を設計した水島家末裔に残されていた平面図や古写真を参考にして、いかに忠実な外観を造るかで苦心されたようです。『日本城郭大系・月報』の回顧談に「私のこの種の第一作であったが、この最初の仕事が一番難しかった。和歌山城の天守の一画は複雑な形をしていて、直角が全くない。資料も不足していたが、近くから撮った(天守の)写真が多数手元にあった。実はこれが設計を難しくした。写真が多くあると、完成時に同じように納まっていなければならない。その苦心は大変なものである(抜粋)」と述べ、原寸大の設計図を色分けしたこと、木造建築の設計図を先に作り、それをコンクリート造りに当てはめていく難しさなどが語られています。
全国の再建天守を見ても和歌山城天守ほど往時の姿とほとんど変わらない外観天守は見られないのです。苦心も一番なら外観も一番です。さらに藤岡氏は天守台についても「地元で採れる緑泥片岩を積み上げただけの野面積みだが、石垣は狂っていない。それはこのすぐ下に同じ緑泥片岩の岩盤があるからで、ヨーロッパの岩山の上に建つ城の建築と同じような性格となっている」と記されています。この岩山(虎伏山)に建つ昭和の天守は、歴史の風景を伝えて還暦を迎えました。
写真=10月1日に再建から60年を迎えた和歌山城天守
(ニュース和歌山/2018年10月6日更新)