1年を表す漢字に〝災〟が選ばれた2018年。巨大台風や大地震に見舞われ、防災について考える機会が増えました。日ごろからいかに備えるか? 私たちと同じく、災害を経験してきた先人たちは様々な形で教訓を残してくれています。そんな大切なメッセージを風化させることなく、地域で継承するための取り組みを見ました。
神社を防災・減災拠点に〜低い災害リスク 活用図る
東日本被災地の鳥居
和歌山市園部の有功小学校西にある伊達(いたて)神社。社務所の大広間には、ペットボトル入りの水やトイレットペーパー、簡易トイレ、ブルーシートなどが積まれている。「備蓄を始めたのは2017年5月。その2ヵ月前、インターネット上である論文を見つけたのをきっかけに、緊急物資を蓄えています」と藪内佳順宮司は話す。
その論文とは、神戸市立工業高等専門学校の髙田知紀准教授によるもの。神社と災害リスクの関係を調べた研究だった。
髙田准教授は東日本大震災が発生した2011年、東京工業大学大学院の学生だった。大学のプロジェクトで復興を支援するため、被災地を度々訪れた。沿岸部で目に留まったのは、ほとんどの住宅が津波に飲み込まれた地域に残る神社の社殿や鳥居だった。「古来、人々が信仰してきた神社は、自然災害に対して安全な場所に建てられているのではないか?」
この仮説を元に2年かけて宮城県の沿岸部にある215社を調査。津波被害がなかったのが139、一部のみ浸水したのが23と、7割以上が無事だった。
写真=備蓄品を確認する藪内宮司(伊達神社で)
神戸高専准教授となった後、南海トラフ地震で大きな被害が予想され、多くの水害を経験してきた和歌山県を調べた。
412社の位置を、行政が作成したハザードマップなどと照らし合わせたところ、南海トラフ地震の津波を免れる神社、河川が氾濫しても浸水しない神社がいずれも91%、土砂災害危険区域外も66%あった。
「被災して安全な場所に移したところもあるでしょう。また、神様は里と山の境界部分にまつることが多いのですが、それが少し高いところとなり、結果として水害に対して安全な場所になったのでは」と見る。
写真=「神社の歴史を知るには由緒書きのほか、郷土誌や地名辞典も参考になる」と髙田准教授
地域への関心と愛着を
安全な立地にあることが多いと分かった神社をどう防災・減災に生かしていくか。そのモデルとして、伊達神社での取り組みが始まった。備蓄に加え、昨年2月に炊き出しイベントを開き、地域の人が神社へ足を運ぶきっかけをつくった。2月16日(土)にも炊き出しを行うのに合わせ、中央構造線の断層やため池といった災害に関連するものだけでなく、景色の良い場所や史跡など地区内を見て回るフィールドワークを実施する。
災害発生後、被害を小さくするには、住民の行動が鍵となる。髙田准教授は「地域の人が自分たちの街に関心と愛着を持つこと。そのための入り口として、住んでいる地域のその場所に、なぜ神社があるのかを気にしてもらいたい。それが地域のリスクや安全を知ることにつながる」と強調。藪内宮司は「昨年、水害に遭った岡山県倉敷市真備町でも、高台にある熊野神社に住民が自主的に避難し命をつないだ。安全性の高い神社を防災・減災のコミュニティ空間として活用していければ」と願いを込める。
写真=南海トラフ地震の津波のリスクをまとめた図の一部。被害を免れると考えられる場所に神社は多い(髙田准教授作成)
〝災害の記憶〟に目を向けて〜進む石碑や古文書調査
東日本大震災、そして紀伊半島大水害に見舞われた2011年以降、有識者でつくる「県立博物館施設活性化事業実行委」は〝災害の記憶〟調査を続ける。地震や津波、水害の脅威を後世に伝えるため、先人が残した県内の碑や古文書、さらに口伝えの伝承などを研究している。
災害記念碑は、地震・津波に関するもの63、洪水関連78を確認。実行委メンバーの一人、県立博物館の前田正明学芸員によると、津波関連では「詳細を記し、将来への警告や教訓とするもの」「津波の到達点や水位を伝えるもの」「災害で亡くなった人を供養するもの」「災害復興に尽力した人を顕彰するもの」に大きく分類される。
14年以降は毎年、市町村を決めて重点的に調査。その成果を住民と共有するため、対象となった市町村で現地学習会を開くほか、小冊子『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝える』にまとめ、全戸に配布してきた。
今年度は白浜町と日高町が対象。調べた1つが、白浜町富田の飛鳥神社に伝わる「津波警告板」(県指定有形民俗文化財)だ。1707年の宝永地震で津波に襲われた地区内の百数十人が亡くなったこと、高台に逃げ助かった人もいたが、家財を気にして逃げ遅れた人は犠牲になったことを書き残す。加えて、「毎年祭礼の節村中見聞すべし」と年1回の祭礼で村人に板を見せて聞かせるよう記している。
この習わし、江戸時代後期以降、長らく行われていなかったが、約20年前に再開された。以後、毎年11月23日に神社での神事や獅子舞の後、避難場所に指定されている神社の裏山に移動し、区長らが津波警告板について説明する。富田地区の野々田憲市区長は「毎年、200人の参加があり、特に東日本大震災以降、住民の関心が高まっているのを感じる。地域の大切な文化、来年以降も継続していきます」と話す。
災害への教訓として、先人が残したものは多いが、富田地区のように生かされているケースは少ない。前田学芸員は「過疎化や高齢化を受け、地域で災害の記憶を引き継いでいくのが難しくなっている」と指摘。「一方で、避難訓練は盛んに行われるようになっているので、その際に歴史を伝えるのは一つの方法。実行委が作る小冊子には地図も入れている。これを片手に地域を歩いてほしい」と語る。
なお、和歌山県内の災害記念碑一覧や小冊子は県立博物館HPで見られる。
写真上=飛鳥神社の祭礼時、集まった住民に区長らが津波警告板の内容について毎年説明する/右=伝わる津波警告板(2枚とも和歌山県立博物館提供)
私たちの身近な歴史に学ぶ
1889年8月の水害を今に伝える碑で、和歌山市坂田の了法寺境内にある。『県災害史』によると、暴風雨による河川氾濫で、家屋の浸水2万9000戸、倒壊3200戸、流失2400戸、死者1221人と大きな被害が出た。
江戸時代後期に築かれた南北約1㌔の堤防。現在、水軒公園に保存されているのは、道路拡幅工事で見つかった石堤16段中上部6段を移築したもの。
JR海南駅前広場に建つ。1946年12月の昭和南海地震の際、この石碑の下部まで津波が来たことを示す。
貴志川の右岸、紀の川市桃山町の大歳神社前にある。1953年7月の水害でこの周辺にも大きな被害が出たが、川の改修や耕地整理を終えたのを記念して建てられた。
安政の南海地震後、濱口梧陵が私財を投じ、村人を雇って完成させた堤防。1903年に始まり、今も続く津浪祭では毎年、この堤防に小学生らが土を盛る。(写真提供=広川町)
安政の南海地震の際、村人が津波から避難した大日山の頂上に建てられた。地区では1979年に大日如来堂を再建し、毎年1月にもち投げなどを実施。この行事自体が津波からの避難訓練になっている。(写真提供=和歌山県立博物館)
(ニュース和歌山/2019年1月3日更新)