江戸時代に和歌山城の正面入口へ連なった京橋御門。現在の和歌山市十二番丁の本町通りにある跡地近くで当時のものと思われる石垣が初めて確認された。市堀川沿いのビル下部で、道路から隠れているため見過ごされてきた。かつての城下町エリアで、目に見える当時の遺構はなく、専門家は「立派な門の名残りを感じさせる。調査、記録が必要」と指摘している。
近世工法 市堀川沿いで確認〜お城教室通じ発見
江戸時代、和歌山城北側には城下町への入り口となる本町御門(現同市本町9丁目)、武家屋敷が並ぶ三ノ丸へは京橋御門、城の内郭へは一ノ橋大手門があり、一般の人は京橋御門から中に入れなかった。京橋周辺は市堀川に商船が行き交い、荷揚げ場のあるにぎやかな場所で、当時の地誌書『紀伊国名所図会』には石垣を備えた櫓門形式の京橋御門が描かれている。
確認された石垣は京橋南詰にあるビル下で、遊歩道から本町通りへ上がる階段の奥、約十数㍍にわたり連なっている。
月1回、和歌山市が開く「和歌山城で学ぶお城教室」に参加していた元高校教諭の渡瀬敏文さんが一昨年秋、この石垣を発見。教室の講師を務める日本城郭史学会委員で、本紙「ふるさと和歌山城」を執筆した水島大二さんが検分したところ、石垣の西端縦90㌢×横70㌢部分から中程までが当時の遺構の可能性が高いと認めた。
渡瀬さんは「市堀川沿いに、もしかすると江戸期の石垣もあるのではと寄合橋から堀詰橋の間を2往復したが、近現代のものばかりでした。もう一度と中橋から京橋に向かって歩き、本町通りに登ろうとして右下の店鋪の土台を見たら算木積みの石垣が見えました。石質もお城でよく見られる和泉砂岩で、これはと思いました」。連絡を受けた水島さんは「江戸時代の最もスタンダードな石垣の積み方である算木積みが美しく残っている。直方体の石垣を井桁に組み上げる工法で、角もはっきりしている。京橋御門に続く、多門櫓隅の石垣と思われる」と判断した。
水島さんからの指摘でこの石垣を確認した同市立博物館前館長の額田雅裕さんは「道路面から下にあるため見過ごされてきた。当時の石垣の可能性は高い。城下町の名残りは町の形としては残っているが、目に見えてあるものはほぼない。もし、そうならば貴重で残しておくべき」と語る。
石垣の上にあるビルオーナー、上岡克巳さんは「1973(昭和48)年の改修時に気づいていたが、あまり気にとめなかった。町並みは昔と随分変わったが、昔のものが残っていたなら良かったと思う」。
市堀川沿いは『名所図会』の絵図では土塁が続き、付近の発掘調査などから石垣は明治以降に造られたのが分かっている。同市文化振興課は「写真で見る限り、可能性はある。建物の解体や改修という機会がないと本格調査は難しいが、いずれ調べ、記録する必要は感じる」とする。
渡瀬さんは「近くに丸正やぶらくり丁があり、小さい時から親に連れられ、親しんだ場所。歴史の1ページが加えられるならうれしい」。水島さんは「武家屋敷が並ぶ一帯の表玄関。大きな石を積んだ立派な門だったのが、残った石垣からしのばれます」と話している。
写真上=京橋の広場矢印の下に、算木積みの石垣(写真中)が隠れている
写真下=丸で囲んだ部分の一部と見られる
(ニュース和歌山/2019年6月8日更新)