県は8月24日(土)午後2時、和歌山マリーナシティで「紀淡連絡道路実現化県民大会」を開く。「輝く交流海道」をテーマにクルージングなどを実施。西口勇知事は「ムードを盛り上げるイベントにしたい」と話している。(1996年7月11日号掲載)

紀淡連絡道路の完成イメージ図

 和歌山市と淡路島の洲本市の約40㌔(海峡幅11㌔)を結ぶ紀淡連絡道路の構想は、87年の第4次全国総合開発計画で浮上した。大阪湾環状交通の要として関西国際空港と西日本全域を結び、災害に強い新国土軸をつくるためで、92年には県を事務局に関係府県で紀淡海峡交流会議が発足。国へ働きかけを進めた。96年、県は「世界最長の吊り橋」建設へ気運を向上させた。

実現めざした西口県政

 1996年7月11日号掲載記事の「紀淡連絡道路実現化県民大会」はマリーナシティで開催。当日は小中学生とその家族約200人が徳島高速船に乗り、淡路島、友ヶ島を巡った。担当課職員だった赤坂武彦さん(49)は「ナイアガラの滝という仕掛け花火が印象に残っています。徳島から子ども阿波おどりも招き、盛大でした。当時、関係自治体の会議が多かったのですが、和歌山が常にリーダーシップをとっていましたよ」と振り返る。

和歌山市駅前にあるPR看板

 和歌山市など8市12町で結成した紀淡連絡道路実現期成同盟会は96年度から研修会を始めた。研修会には自治体担当者約60人が出席。講師の一人で同市立博物館副館長だった寺西貞弘さん(61)は「南海道」と題し話した。「阪神淡路大震災の時、淡路島への救援は和歌山から船で向かった。同規模の地震が起きても新橋で和歌山から淡路へもう一つルートができると強調しました」
 同年は県議会でも質問が相次いだ。長坂隆司県議(57)はこの頃、〝超推進派〟を自認。オランダなど海外の物流拠点で働いた経験から、「和歌山へ陸海空の物流拠点を置くのが持論でした」。県が過去最高の調査費5億1400万円を組んだのを受け、2月議会で技術や観光振興面の課題をただした。長坂県議は「安全性を確認し、震災で広がった一般の不安をぬぐいたかった。応援の質問でしたね。当時は議員連盟の活動も活発で、友ヶ島へのカジノ誘致の声もありました。西口県政は建設物の目玉として実現に本気でした」と語る。
 98年の第5次全国総合開発計画。紀淡連絡道路は「構想を進める」と明記された。

凍結、そして再浮上

 この後、経済情勢から構想は停滞。公共事業への世間の目も厳しくなった。響いたのは民主党政権下の2008年、国土形成計画で、湾口、海峡部のプロジェクトは凍結され、市町村の熱は次第に冷めていった。
 しかし、政権は自民党へ。東日本大震災後の国土強靱化計画の流れで構想は再浮上する。昨年、関西広域連合の議会で、山下直也県議(59)が「多極型の国土構築が課題。そのために紀淡ルートは太平洋新国土軸の要になる」とし、必要性を質問。副連合長の仁坂吉伸知事は「紀淡連絡ルートは一石五鳥の意味がある」と答えた。
 今回の構想は、全国新幹線鉄道整備法で、四国新幹線と大阪市〜徳島市間が基本計画に決定している点を軸にする。大阪市〜徳島市のルートが未定のため、これを紀淡海峡へ導き、鉄道と道路の併用道で淡路島へつなぐ考えだ。県総合交通政策課は「大阪湾を囲む環状道路が整い、関空を拠点に経済文化圏ができる。災害時に今の国土軸を補う機能も確保できる」と説明する。
 昨年9月には、近畿1府4県で関空・紀淡・四国高速交通インフラ期成協議会が結成され、仁坂知事は会長に就いた。東京などでの催しで、構想の意義を訴え始めた。
 先の山下県議は「かつてユニバーサルスタジオの誘致活動で道と上下水道がネックになり、悔しい思いをした。道路で人モノ情報の循環ができれば、飛躍の機会は増える」と力を込める。再浮上した大プロジェクトは新たな議論を呼びつつある。

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ニュース和歌山2014年8月16日号掲載