今回の依頼は紀の川市貴志川町に住む男性(75)からの質問。「『堀止』という地名はほんとに昔、そこまでお堀があったのですか?」です。

 和歌山城の周辺には、江戸時代の城下町だったころの名残りが地名に残っています。そのうちのひとつが「堀止」でしょう。いかにも堀の終着点のような名前ですが、堀はあったか、なかったのか…。

 ニュース和歌山発行『城下町の風景』でおなじみ、和歌山市立博物館の学芸員、額田雅裕さんに聞きました。



 

〝南外堀〟が大正まで存在

 「『堀止』という地名はほんとに昔、そこまでお堀があったのですか?」。和歌山市立博物館の額田雅裕さんに聞きました。

 江戸時代、和歌山城には内堀のほか外堀があり、北側に北外堀(現・市堀川)、東側には東外堀がありました。問題は南側です。

 「防衛ラインは寺町でした。しかし、寛永年間(1624〜44)にその南、現在の吹上・堀止東に武家屋敷が新設されました。その外側に和歌川から水を引く形で、南外堀を造りました」

 新堀橋から堀止西の神明神社近辺まで掘る計画でしたが、ある事件で現在の堀止交差点付近で工事は止まります。「1651年、幕府転覆を謀る由井正雪の乱が起き、藩主の徳川頼宣が正雪とのつながりが疑われ、堀を掘るのを途中で止めた。それがそのまま地名に残ったのです」

 南外堀は荷揚げに適し、南側は商人町として栄えました。大正期に埋められましたが、その名残りは昭和、平成まで残りました。

(ニュース和歌山/2020年1月25日更新)