㉕北島住吉社、野崎八幡社、狐島稲荷社

 上の絵は、紀ノ川河口に近い北島渡し付近の約200年前の風景です。当時の北島渡しは、城下町の北側、現在の北島橋と河西橋の間にありました。

 滔々(とうとう)と流れる紀ノ川には三艘の船がみえます。

 紀ノ川北岸には石組の突堤か刎(はね)のような石造りの構築物があり、渡し船はその背後の流れが緩くなった所に泊まっています。乗客は船から降り、土手を登って街道沿いの北島村の方へ向かっています。現在の北島橋はその2~300㍍上流に架かっており、時代が変わっても、交通の要衝はほとんど変わらないようです。

 紀ノ川南岸寄りの中州にある渡し場では、数人の乗客が船の戻ってくるのを待っています。

 紀ノ川下流域には、中州や自然堤防が島状に発達し、北島・福島・狐島などの島地名が多く分布しています。

 その一つ、北島村には永正7年(1510)に市内関戸の矢の宮より勧請したという産土神、住吉神社があります。和歌山城下から加太に至る加太街道に沿っては野崎村の産土神八幡社、狐島村の稲荷社もみえます。

 「島橋」は、土入川(どうにゅうがわ)に架かる加太街道の橋で、狐島村と土入村の間に架かっています。

 土入川は、古代の紀ノ川の旧流路で、現在の船所付近から西へ流れ、貴志付近で方向を変えて南流し、湊で紀ノ川に流入しています。その中間の平井付近は、永承3年(1048)の古文書に「平井津」とみえ、国衙(こくが)の収納所があり、紀伊湊の重要な港湾施設であったことがわかっています。(和歌山市立博物館総括学芸員 額田雅裕)

彩色=芝田浩子、画=西村中和

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 江戸期の地誌「紀伊国名所図会」に彩色し、解説する『城下町の風景』は第2・4水曜号掲載。次回は4月8日号です。

(ニュース和歌山2015年3月25日号掲載)