和歌山市出身で現在、神奈川県在住のみかんさん(64)からのご質問です。「和歌山市堀止西にある神明神社の一つ北側の細い通りに平久橋がかかっています。『文政十二年十一月吉日』とあります。お堀の名残りと聞きましたが、ここまでお堀があったのですか?」

 和歌山城の堀で、最も南に位置したものが、江戸時代に現在の新堀橋付近から堀止交差点まで東西に走っていたのは昨年、本欄でお伝えしました。が、この橋はさらに西。堀の名残りなのでしょうか? 

写真=長さ1㍍と少しの「平久橋」

 


 

水路にかけた橋

 「神明神社近くの平久橋は堀の名残りと聞きましたが、ここまでお堀があったのですか?」。和歌山市立博物館元館長の額田雅裕さんに聞きました。

 江戸時代の寛永年間(1624〜44)に現在の吹上・堀止東に武家屋敷、その外側に南外堀ができました。計画では現在の新堀橋近くから堀止西の神明神社近辺まで至る計画でしたが、1651年、紀州藩主の徳川頼宣が幕府から謀反の疑いをかけられ、現在の堀止交差点で止めたと言われます。

 「実は一度、神明神社前まで掘り、その後、埋め戻しているんです」と額田さんは語ります。

 ここは堀というより、和歌川と水軒川をつなぎ、水運の利便性を上げる運河にしようとしたのが史料からうかがえます。「しかし、この辺りは砂丘地帯で、かなり深く掘らねばならず、運河に適していなかった。それで一度掘って埋めたとも考えられます」とみます。

 ここが堀の水路となり、現在も堀止から平久橋をへて西側、銭湯の神明湯裏にまで残ります。平久橋は水路にかけた橋で、「おそらく橋をかけた人物の愛称にちなんだ名と思われます」。

 この一帯には平久橋と同じ石質のふた石が他にもあります。城下町ができる歴史を今も感じられる貴重な空間なのです。

(ニュース和歌山/2021年6月19日更新)