徳川吉宗、濱口梧陵、南方熊楠…、和歌山には多くの偉人がいて、各所に銅像が立っています。今回は和歌山市のユミリンさんから届いた「岡公園に陸奥宗光の銅像があるのはなぜ?」と、山本次郎さんの「台座の端っこに立っているのはなぜ?」を調査します。
陸奥宗光といえば、明治時代の日本外交で活躍し、「カミソリ大臣」との異名を持つ、和歌山市出身の人物です。
公園に展示している蒸気機関車の東側にあり、三年坂を通るとよく見えますね。
日本に貢献した人の碑が建つ場だからか
まずは最初の質問「陸奥宗光像はなぜ岡公園にあるの?」。当時を知る人にたどり着けず、理由が分かる資料も確認できませんでした。ただ、「陸奥宗光外務大臣」の功績を教育に活かす実行委は「和歌山市が管理し、四役戦亡記念碑や征清記念標碑といった、明治期の日本に貢献した人の碑が建っているこの地がふさわしいと考えたのでは」と推論します。
幕末から明治は、欧米諸国と対等な関係を結ぼうと近代化を進めた時代です。外務大臣の陸奥は1894年、イギリスとの不平等条約を改正し、日英通商航海条約を締結。その10日後に日清戦争が始まり、翌年、下関で日清講和条約を結びました。さらに欧米15ヵ国とも不平等条約を改め、国家主権を取り戻しました。
こうした功績から1907年に外務省(現在のものは2代目で66年完成)、38年に下関の日清講和記念館に銅像が建てられました。
地元・和歌山には70年、明治百年記念事業として、市民や企業の寄付で造られました。構想は紀の川市出身の彫刻家、保田龍門が手掛け、他界後、息子で武蔵野美術大学名誉教授だった保田春彦が完成させました。
もう一つの質問「像が台座の端に建っているのはなぜ?」。県立近代美術館に確認しましたが、「そんなデザインでは?」と首をかしげていました。一方、海南市の画廊ビュッフェファイブは「設置区画の中で台座自体が左に寄っている。像の横に何か建てる計画があったのかも…」と思いをめぐらせます。皆さんはなぜだと思いますか?
(ニュース和歌山/2022年3月5日更新)