絵は、江戸時代後期の熊野古道、和佐王子(和歌山市祢宜)付近の風景です。
吐前王子・川端王子から和佐王子へ向かうと、熊野古道は徐々に勾配(こうばい)がきつくなってきます。絵図では山すその右下に「和佐王子」と記されていますが、建物はなく、緑色片岩に王子名を刻んだ石碑があります。石碑は寛文年間(一六六一─七二)に紀州藩によって建てられたもので、現在も王子跡に残っています。
背後の和佐山には二つピークがあって、右の城ケ峯(二五五㍍)山頂には南北朝期に和佐山城がありました。ここでは延文五年(一三六〇)、北朝方の畠山義深が陣を敷き、南朝方の四条中納言隆俊らとの戦いが行われました。
左の高積山(二三九㍍)山頂付近には「本社」と記された高積神社の上宮、山麓(さんろく)には「気鎮大明神」と記された下宮が建っています。その右側は臨済宗妙心寺派の「歓喜寺」で、鎌倉時代末~南北朝期には熊野古道を行き来する禅宗と律宗の僧尼のため接待所(簡易宿泊施設)が設けられていました。
右端の矢田峠付近は、今も約五〇〇㍍にわたる未舗装の山道が続き、昔の景観をよく残しています。
関西大学非常勤講師 額田雅裕
画=西村中和、彩色=芝田浩子
(ニュース和歌山/2023年4月22日更新)