1971年に発売され、今なお版を重ねている『ある明治人の記録〜会津人柴五郎の遺書』(中公新書)という古典的新書があります。
柴は会津藩士の家に生まれました。しかし、時代は御一新。1868年、会津藩は薩長軍に破れます。柴は当時10歳で、祖母、母、姉妹は自刃し、自らも父、兄弟と下北半島の火山灰地に追われます。食べ物もなく、犬を捕まえて食べ冬を越えます。
その後、青森県の給仕となり、東京へ出ます。朝敵、賊軍と会津出身者への目は厳しく、後ろ盾もない中、青森県大参事だった野田豁通(ひろみち)の計らいで、陸軍幼年学校に入学、やがて〝賊軍〟出身者初の陸軍大臣となるのです。中国の在駐武官だったころ、北京で義和団の乱から外国人居住区を守り、西欧に柴の名をとどろかせました。
幼いころから武士の子であることが心を支えます。困難に直面しても父から「薩長の下郎武士どもに笑われるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは生きてあれ」と叱責されました。「自刃して果てたる祖母、母、姉妹の犠牲、何かもって償わん。城下にありし百姓、町人、何の科(とが)なきにかかわらず家を焼かれ、財を奪われ、強殺強姦の憂き目をみたること、痛恨の極みなり」と薩長へ怒りもたぎらせます。
維新と言えば薩長土肥で、幕臣たちのその後はあまり関心の対象になりません。徳川家は明治政府から駿河・遠江に七十万石が与えられ移り住み、静岡藩となったと私は先日初めて知りました。藩は財政難で汁粉屋、団子屋と商に転じる武士が多く、そのうち帰農した武士が茶畑を開墾し、様々な苦難を超え、茶を地域の産業に育てたのです(安藤優一郎『幕臣たちの明治維新』講談社現代新書)。
今年は維新から150年。観光キャンペーンに大河ドラマと派手です。「薩長土肥が近代の日本をつくった」とのPRまで目にします。果たした役割の大きさは否定しませんが、柴や静岡藩士の例に触れると、維新で破れ、挫けなかった人の力が近代日本を一方で支えたと思えます。また柴の遺書を見るに付け、薩長の戦いが礼賛のみを浴びるべきものか疑問です。
歴史への評価は難しく、史料一つで何がどう書き換わるか分かりません。傷付きながら負けず、次を生んだ人たちの底力にも日本がある。「維新150年」の大声の中で言いたいです。 (髙垣善信・本紙主筆)
(ニュース和歌山/2018年1月13日更新)