1月、本欄で明治維新150周年への懸念を記しました。すると、知人が「あなたの会社の目と鼻の先に維新の歴史がありますよ」と教えてくれました。和歌山市加納町。ニュース和歌山から西へ100㍍といった所です。

 加納町は1874(明治7)年に加納宗七の名前から付けられました。『城下町和歌山百話』(三尾功著、宇治書店)によると、宗七は和歌山城下にある酒造業者の家に生まれます。若い時から勤皇の志士とつきあい、土佐海援隊と行動をともにします。

 1867年、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されました。その際、真っ先に疑われたのが紀州藩でした。半年前、紀州藩の船と衝突した海援隊の伊呂波丸が沈没しました。龍馬は強引な交渉で紀州藩から多額の賠償金を奪います。その恨みではと噂になり、海援隊16人が京都にいた紀州藩公用人の三浦安を襲います。宗七はその中にいました。

 一度は追われる身となりますが、明治政府ができた後に材木商・廻船問屋として活躍を始めます。宗七の名を轟かせたのは神戸の生田川の付け替え工事です。度重なる氾濫で地域を悩ませた生田川の流れを変え、その跡を当時としてはケタ外れの幅の道にしました。これが現在の三宮を貫くフラワーロード、神戸の骨格です。これを作ったのが私たちの先人だったのです。神戸の加納町も宗七にちなんだ町名で、今も銅像が立ちます。

 宗七は和歌山でも紀の川や和歌川の改修、鼠島の整備、今の加納町区域も造成します。神戸へ移住した後も土砂の堆積に悩まされた紀の川の浚渫(しゅんせつ)に私財を投じて協力し、和歌山県から感謝状を贈られています。しかし、『草莽の湊神戸に名を刻んだ加納宗七伝』(朱鳥社)の著者、松田裕之さんは宗七の功績が和歌山であまり顧みられていないのを嘆いています。

 「侠商」と呼ばれた宗七はフラワーロードが示すように大胆な人物だったようですが、神戸でも和歌山でも河川や港湾整備に尽くし、人の暮らしを支えるのを使命とした節が見えます。彼にとっての維新の志は庶民の暮らしの向上だったと思えます。

 維新は時代の変わり目ゆえ実に多様で、よく語られる権力史だけに収まりません。それにしても足元の歴史をちょっとひもとくだけで、忘れてしまった先人の意気、他地域とのかかわりまで出てくる。歴史豊かな街に暮らす醍醐味でしょう。 (髙垣善信・本紙主筆)

(ニュース和歌山/2018年2月10日更新)