和歌山が誇る博物学者、南方熊楠は若いころに出会い、終生、心を寄せた兄弟がいました。大学予備門を退学後、療養で日高郡に身を寄せた際に知り合った医師の長男羽山繁太郎と次男蕃次郎です。熊楠は繁太郎を英語で「親密な友」と記し、2人で白浜を旅します。道成寺の瓦を2つに割って互いに持った仲です。

 熊楠によると、兄弟は「属魂の美人」で、医大に進み医学を志します。しかし、熊楠が米国留学中に若くして結核で亡くなります。

 熊楠の喪失感は深く、ロンドン時代には繁太郎と似ていると、ある女性に近づきます。しかし、いざ女性が熊楠の手をとろうとすると、熊楠は拒みます。また田辺では近所の男の子に繁太郎が転生した夢を見て、その子を可愛がります。そして死ぬ直前まで2人を夢に見続けるのです。たとえ相手が同性であれ、死別で会えなくなった人を思い続ける熊楠の純心をさげすむ人はいないでしょう(参考=唐澤太輔『南方熊楠』中公新書)。

 LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の人を「子どもをつくらない、つまり生産性がない」とした国会議員が批判を浴びました。では高齢者、障害者は? その見方は相模原事件を生んだものと同根ではないか? 厳しい批判がなされました。私が指摘しておきたいのは議員の見解の貧しさです。先の熊楠は性に関する古今東西の風習、逸話を渉猟していました。男色研究家の岩田準一との書簡にその知見がうかがわれます。

 その中で武道の盛んな時代に、親が子の保護を年長の武士に頼み、年長者が身命をかけ少年の世話をしたことを挙げ、これを浄の男道と呼びます。男色を文化的に考えるなら肉体的なかかわりだけでなく、魂の結びつき、友愛の部分を見過ごしてはならないと見ます。熊楠は羽山兄弟への思いをためらいなく語り、2人の幽霊が新種の生物の発見に導いてくれた、その妹が自らの天皇へのご進講の無事を祈ってくれた、と友愛が生んだ人生の実りを語るのです。

 熊楠の論考集『浄のセクソロジー』(河出文庫)で、中沢新一さんは言います。江戸時代の学者は性への関心が深く、同性愛も異性愛も同じに扱った。しかし、明治以降、性愛と知の領域が分離され、家庭生活の維持に必要な性行動だけが認められ、それ以外はスキャンダルになった、と。人と人の多様な関係性を、狭い意味での「生産性」で切る論理は近代以降のやせた性観念から発せされた典型例です。人間の不可思議さを軽く見ています。 (髙垣善信・本紙主筆)

(ニュース和歌山/2018年9月8日更新)