10月20日ニュース和歌山「和歌山城天守閣 再建夢見た立面図」の取材を通じ、天守閣の戦後再建に和歌山県の建築技師で和歌山市文化財保護委員を務めた松田茂樹さん(1895〜1991)が果たした役割、その仕事の深さを知りました。
松田さんは紀の川市出身で、東京工業大学を卒業し、大阪の建築事務所で活躍していました。しかし、体調を崩して帰郷し、1921年に和歌山県職員となります。建築がコンクリートへと変わる過渡期、県内の公共施設を整備し、退職後も様々な建物の保存、調査、設計に携わります。
和歌山城に関して言えば、松田さんは紀州藩のお抱え大工だった水島家が持っていた和歌山城の絵図面を一部譲り受けていました。天守閣の戦後再建は、東京工業大学教授の藤岡通夫さんにスポットがあたります。実際、全国でも最も忠実な外観の再現をなしえたのは藤岡さんの力ですが、松田さんが所有した資料や、戦前、藤岡さんが和歌山城の論文を書く際に行ったサポート、なにより設計を藤岡さんに託した人選と、大きな流れの導き手としての松田さんの存在は無視できません。地元にあるものの良さを理解し、自らが持つ広いネットワークの中で仕事を展開させ、お城はもとより、基本設計を担い、空襲に耐えた県庁舎とローカルを超え誇れる形を結実させました。郷土を物語る建物づくりだけでなく、まちづくりの模範をみます。
和歌山工業高校でも教べんをとり、耐震と造形美にこだわる自らの考えを伝え、後進を育てました。和歌山県建築士会和歌山市支部は3年前、国体の文化プログラムとして「松田茂樹の仕事展」を開きました。お城、県庁はむろん串本町沖で遭難したトルコ船エルトゥールル号慰霊碑、旧県立図書館と松田さんの仕事を振り返りました。
中でもエルトゥールル号慰霊碑は、トルコに串本と同じ碑が建つのを紹介しました。これは松田さんが自らの設計図をトルコに渡したためで、展示企画した同支部の高垣晴夫さんは「両国に同じ碑があると心の距離は近くなる。松田さんはそれを分かって設計図を渡したのでは」とみます。岡公園横にナマコ壁の長屋門が保存移転されたのも松田さんの記録の存在が大きく、「人づくりも含め、様々な種をまいた。自分がいなくなっても後に育つことをしていると感じます」と話します。
歴史を知るのは後ろ向きなことではなく、そこに未来があると松田さんから学びます。まかれた種はたえず芽を出す機会をうかがっていると思えます。 (髙垣善信・ニュース和歌山主筆)
(ニュース和歌山/2018年11月10日更新)