久しぶりに和歌山市の中心市街地、ぶらくり丁界隈を歩きました。平日だったので人影はまばらながら、思っていたより人通りはありました。

 平成のぶらくり丁は、丸正の倒産、築映閉館と長年、共存共栄していた近隣施設がなくなり、古くからの店も数多く閉店しました。先月も老舗ファッションセンター朱洸が現店舗での営業を終え、にぎわい創出の試みの一つに生まれた交流拠点「みんなの学校」も閉鎖されました。

 こんな言い方をすると怒られるかもしれませんが、それでもぶらくり丁に新しく店を構えようとする人は絶えません。2月には猫カフェができ、お寿司屋さんも開店準備を進めています。北ブラクリ丁には鉄板バルの看板を新たに見かけました。また、「ポポロハスマーケット」「マルシェドプティパ」といったイベントも定着し、商店街関係者ではもっと城下町の雰囲気を盛り込む案が出ているそうです。かつての人波や郊外の商業施設と比べると、厳しいものがありますが、ここを元気づけたいという人が必ず現れてくるのが不思議です。

 現在のぶらくり丁の場所は江戸時代は寂しい通りだったそうです。1830年に火事になり、その跡地で当時の町役人が商売を許したのが始まりです。1855年に再び火災、1945年には空襲で焼けました。しかし、その度に復活する歴史をたどっています(三尾功著『城下町和歌山百話』宇治書店)。

 城下町和歌山の成立について耳に残る説があります。市立博物館前館長の額田雅裕さんによると、この城下町の町割りは、湊紺屋町から板屋町、万町、今のぶらくり丁を抜け、大新通りへ続く東西の一本道と、京橋から本町8丁目と南北に走る本町通りによる縦横の十字を基準線に均等になされたと考えられるそうです。

 そもそもぶらくり丁は、城下町和歌山の軸というか要に位置し、ここを中心に町が栄えたのも町の理にかなっていたのです。となると、ここの活性化を抜きにまちなか再浮上はありえないと思えてきます。江戸時代の商いの中心は今のぶらくり丁ではありませんでした。しかし、火事で商いの場となり、焼けてもよみがえる。今も元気にしたい人は絶えません。多くの人が愛着を示すのは栄えた時の思い出だけでなく、城下町成立の軸にあり、町の記憶に根ざすからではないでしょうか。

 令和の世は、まちなかに大学が増え、市駅、市民会館と核となる施設が新たになります。今までもテコ入れされてきた商店街ですが、この町が面としてにぎわうにはここの元気は必須です。土地の記憶にそったアプローチができれば、その潜在的な力が目覚めるように思います。(髙垣善信・ニュース和歌山主筆)

(ニュース和歌山/2019年4月6日更新)