和歌山の戦跡を研究する森﨑順臣さん(76)から下の写真を見せて頂きました。米国公文書館所蔵で、山口県の戦史研究家、工藤洋三さんに提供を受けたものです。撮影は米軍。終戦直後の和歌浦です。森﨑さんは「米軍上陸に備え、護阪部隊が敵の戦車に見立て、訓練に使った木の戦車でしょう。珍しい写真です」と言います。
護阪部隊は日本陸軍第144師団の通称名。1945年2月から終戦まで和歌山に配備されました。米軍の上陸を許し、本土決戦になった場合、大阪への侵攻を食い止めるのが使命です。事実上、和歌山を捨て石とする作戦で、最初は文教高等女学校(現明和中)に本部を置き、部隊は学校を兵営に山間部で壕やトンネルを掘り続けました。
森﨑さんは5年前、同隊の作戦地図を入手し現地を歩き、和歌浦の天神山で砲台跡、岩橋の大日山などで塹壕の掘削跡を探しあてました。秋葉山の交番裏手では坑道を見つけ、当時の軍資料に秋葉山部隊の任務として「肉攻」の文字を確認しました。「爆弾を手に米国の戦車へ飛び込むための場所です」。護阪部隊が地上での特攻という悲壮な任務を背負っていたのを森﨑さんは明らかにしたのです。
この部隊で実際に作業をしていたのが和歌山市の野村晴一さん(94)です。野村さんは終戦の年、19歳で徴兵検査を受け、すぐ入隊しました。貴志小に寝泊まりし、山中でトンネルを延々掘りました。和歌山大空襲直後に幹部候補生となり、その後は終戦まで、磯ノ浦で砂浜の穴に隠れ、浜に上陸してくる米軍の戦車のキャタピラに、爆弾を付けた竹槍を突っ込む訓練に明け暮れます。「死ぬのが当たり前の時代。戦車が来たら楯になるつもりでした。終戦が1ヵ月遅ければ、和歌山も沖縄のようになっていたでしょう」と振り返ります。
感じるのは地上戦まで紙一重だった現実です。野村さんの呼びかけで4年前、梅原の山中で発見された防衛陣地も、孝子峠を大阪侵攻の防戦地にしようとした跡です。和歌浦から孝子へと戦いを重ねていたら、戦禍は沖縄さながらで、数々の壕やトンネルは悲劇の舞台になっていた。この幻は決して幻ではありません。戦後75年、私たちの平和を求める心はもっと強くていいのです。 (髙垣善信・ニュース和歌山主筆)
(ニュース和歌山/2020年7月4日更新)