阪神淡路大震災が発生した1995年1月17日から来週で20年になります。私自身は当時、他社の記者として被災地を取材しました。ビルや高速道路が倒れ、1人2人の死亡がニュースにならない異常な状況の中での取材は今も整理のつかない経験として心に残っています。
当時取材したもので進化したのはボランティアです。兵庫県西宮市では2日後の1月19日にボランティアを募り、月末に志願者は5000人を超え、市は多さに困惑しました。これを民間の日本ボーイスカウト大阪連盟が支え、行政の手の届かない所をカバーしたのです。また、大阪ボランティア協会が組織した「応援する市民の会」が独自に市民ボランティアを統括しました。西宮北口駅近くに拠点を設け、必要な作業を探し、1日400人を配置しました。その機動力に目をむきました。
あれから20年、今は社会福祉協議会が災害ボランティアの推進、支援を中心的に担うようになり、東日本大震災でも84カ所の拠点を設け、100万人以上のボランティアの活動を支えました。何より、幾つかの震災を経て、多くの人が「災害即ボランティア」と思うようになりました。これは大きな進化です。 しかし、高齢者ら災害弱者のあり方は変わったのでしょうか。当時、避難所では、寝たきりや一人暮らしの高齢者の心細そうな姿が目に付きました。西宮市では、市内6ヵ所の高齢者施設がショートステイの枠を、避難所で生活が困難な高齢者にあて、受け入れていました。それでもすぐいっぱいになり、市は受け入れ施設確保に苦労していました。
被災者は、仮設住宅、そして復興住宅へと移り、生活の再建を図りましたが、仮設住宅に最後まで残されたのは高齢者ら自分から動けない人でした。福島など東日本大震災の被災地も同じような状況になりつつあると報道で伝え聞きます。
被災後、長期にわたる生活再建はどう図れるか。その道筋については阪神淡路の後も課題にされてこなかったように思います。その計画、道筋のなさが東日本大震災でも復興を遅らせ、仮設住宅での孤独死を再び生んでいるのではないでしょうか。
南海トラフ地震が懸念される和歌山や高知も高齢化率の高い地域です。強じん化は大事ですが、人の暮らしを守る仕組みづくりを〝阪神淡路後〟の課題として問い直したいです。(髙垣)
(ニュース和歌山2015年1月10日号掲載)