東日本大震災で約4000人もの尊い命が失われた宮城県石巻市。地震発生から40分後に最大8㍍の津波が押し寄せ、多くの人の命が奪われました。
この街を毎年末、青年活動を共にする仲間と訪れ、支援を続けています。初めて向かった2011年は、焼け残った小学校の校舎や、流された住宅の跡が津波のすさまじさを物語っていましたが、徐々に復興が進み、今は街に活気が戻っています。
昨年末は現地の地元紙、石巻日日新聞が運営する博物館「石巻ニューゼ」を訪ねました。迎えてくれたのは、震災当時、報道部長だった武内宏之館長。印刷機が使えなくなった震災直後、模造紙に情報を手書きして人々にニュースを届けた「6枚の壁新聞」をはじめ、被災した街や復興の様子を撮影した写真が展示されています。
1913年創刊の同社には、大地震が起きると、必ずデマが流れると伝わります。武内さんは「過去に何度も大地震を経験した教訓。記者が出所のはっきりした情報をきちんと届け、『正確な情報で行動を』と呼びかけました。伝える仕事をする者としてできることを尽くしました」と振り返り、「震災を悲劇で終わらせず、実際起きたときのことを考えるきっかけにしてほしい」と強調していました。
海岸から約500㍍のところに住む遠藤孝一さんは、「逃げた方が…」と迷いつつ、過去の地震の度に警報が出ても大津波は来なかったので、「大丈夫だ」と思っていたそうです。そこへ2・5㍍の波が押し寄せ、逃げる間もなく車に乗ったまま飲み込まれました。「一瞬、『もうダメだ』と覚悟しました」。遠藤さんは奇跡的に助かりましたが、同様に逃げ遅れた近隣の約100人が命を落としました。
遠藤さんは「何㍍の津波と言われてもピンと来る人は少ない。自分たちが暮らす地域のシンボルを例に周知すべきだ」と訴えます。和歌山でも建物や山など、地域にあるランドマークのどこまで津波が来るのかがわかると、津波の高さが想像しやすくなるでしょう。
南海トラフ地震が発生した場合、和歌山市や海南市は石巻と同様、最大8㍍の津波が約50分後に到達すると見込まれています。あの日から4年。被災地の報道は減りましたが、学ぶべき教訓はまだまだあります。3月11日は故郷の景色を被災地に重ね、自分たちができることを考えたいものです。(林)
(ニュース和歌山2015年2月28日号掲載)