1945年7月9日の和歌山大空襲の翌日、和歌山城の石垣に掘られた防空壕で夜を過ごした。その経験を「風化させたくない」と和歌山市の上辻正七郎さん(84)からお手紙を頂きました。今年も市街地で1400人以上の死者を出した日が近づいています。
上辻さんは当時小学2年生。岡公園南の谷町に住んでいました。空襲の夜、警報で太田の親戚宅へ逃げようと身支度し、母の手を握り表へ出ました。しかし、「米軍の焼い弾が次々に落ちて来て、自分たちを囲むように火の海が燃え広がりました。もう逃げられませんでした」。
家の側に防火用の池がありました。火と熱風から逃れるため上辻さんは水の中へ逃げ込みます。火除けに被った布団は燃え、熱くて水から顔を上げられません。上辻さんは仮死状態に陥ります。幸い兄の人工呼吸で命を取り留めましたが、耳を痛めてその後遺症は今も続きます。
翌朝の光景は忘れられません。またがないと進めない遺体の数。やけどで顔がふくれあがった人が「水、水…」とうめく姿は「むしろ亡くなった方がよかったのではと思ってしまうほどでした」。焼け出された人は岡公園に集まり、上辻さんはホウ酸水で目を洗い、近所の人におにぎりをもらいました。「あの味は忘れられない」と振り返ります。
その夜、家族6人で過ごしたのがお城の防空壕でした。
防空壕の入口は伏虎像の東の角右側。今もそこだけ石積みが不自然です。「上からは水がぽたぽた落ち、地面が濡れ横になれず、夏なのに朝まで震えて過ごしました。奥には他に人がいましたが、真っ暗で見えませんでした」
『史跡和歌山城保存管理報告書』によると、1942年と45年に陸軍が表坂に2ヵ所、鶴ノ渓に3ヵ所の横穴式防空壕を掘り、69年に閉鎖したとのことです。これらの正確な場所は確認されていませんが、上辻さんが過ごした表坂の防空壕は空襲の夜に多くの市民が逃げ込み、命を守った場所です。一部の市民の間で語り継がれます。
「米軍から市民を守った城の防空壕が忘れられてはいけない。次世代に伝えるのが使命です」と訴えます。か細くなる体験の声に耳を傾け、具体的な事実を留めること。今の時代にどう生かすか、問い続けること。私たち次世代の側にも使命があります。 (髙垣善信・ニュース和歌山主筆)
写真=防空壕跡で当時を語る上辻さん
(ニュース和歌山/2021年7月3日更新)