夫と一緒の墓はイヤ!?
報恩寺東側の吹上砂丘頂部にある徳川家御廟(ごびょう)は、歴代藩主の正室らの墓所です。同寺は日蓮宗の寺院で、江戸時代初期に建てられました。当初は要行寺といいましたが、二代藩主光貞が母の追善のため諸堂を建立した時、報恩寺と改めました。その関係から報恩寺には紀州徳川家ゆかりの女性、早世した子供らの墓碑が残されています。
御廟には、柳門を入って両側に歴代藩主の側室や子供らの墓碑があります。奥の壇上西端に初代藩主の正室、中央に二代藩主の正室、東端に五代藩主吉宗の正室寛徳院(かんとくいん)の墓所があり、それぞれ宝篋印塔(ほうきょいんとう)が建っています。
宝篋印塔は十世紀の中国にあった呉越国王の墓をまねたもので、鎌倉時代初期から身分の高い人の墓や供養塔として建てられました。その名は、宝篋印陀羅尼経(だらにきょう)という、お経を納めたことに由来します。
吉宗は紀州藩主となった翌年(一七〇六年)、京都の伏見宮家から真宮理子(さなのみやまさこ)女王を正室に迎えます。しかし、その彼女は四年後に二十歳で亡くなっています。
吉宗は将軍の墓所、東京上野の寛永寺に眠っていますが、彼女の墓は報恩寺と東京の池上本門寺の二か所にあります。(和歌山市立博物館館長 額田雅裕)
(ニュース和歌山2016年10月29日号掲載)