和歌山城を築いた羽柴(のち豊臣)秀吉は、但馬竹田城(兵庫県)の桑山重晴を城代として入城させました。近年、天空の城として多くの人々が訪ねるようになった竹田城は、和田山町の山上に石垣を残す山城(やまじろ)で、別名を虎臥(とらふす)城と言います。
1586(天正16)年、和歌山城に入城した重晴は、さっそく城の増築に取りかかります。虎伏山上の本丸、二ノ丸の改修と東南麓に曲輪(くるわ=区画)を造築し、城の正面となる大手門を現在の岡口門あたりに構えました。その東方に城下町を開いたようで『紀伊続風土記』に「桑山氏の時は、ようやく広瀬町、細工町、三木町、堀詰なりしという」とあり、造築は、城と城下町という本格的な居城への変身だったことがうかがえます。しかし、当時の和歌山城を伝える資料は乏しく、築城範囲は、緑泥(色)片岩の自然石をそのまま積み上げた野面(のづら)積みを根拠として、推測に頼る以外にありません。
この時期に天守閣があったと思われる記述があります。『南紀徳川史』に「小なる方はかの重晴が築造に係わる。呼びて古(こ)天守と称す」とあり、「和歌山城絵図」(個人蔵)にも「小(こ)天守」の文字が見られます。天守閣の北西角にある乾(いぬい)櫓の下に、北へ張り出した方形の台地がそれで、楯蔵(たてぐら)跡と呼ばれているところです。
この頃、すでに織田信長が築いた安土城(滋賀県)に「天主」と呼ばれる大きな建物がありましたが、全国の城に普及していたわけではありません。小ぶりの建物であっても、当時の虎伏山に天守閣があったとすれば、それはひときわ目立っていたことでしょう。
『南紀徳川史』に、虎伏山は海上より望めば猛虎の伏臥(ふくが=伏せるようす)に似ているところから名付けられたとあります。その真意は別としても虎伏山と虎臥山。桑山重晴は、元居城竹田城の別名をお土産に持って和歌山城にやってきたのでしょうか。
写真=「小天守」があったと伝わる楯蔵跡
(ニュース和歌山より。2017年4月15日更新)