羽柴(のち豊臣)秀吉や主君織田信長時代の築城を物語るものが、虎伏山上の石垣に見ることができます。
天守閣の石垣を周回すると、所々に白い方形または長方形の石が混じっています。最もよく知られているのが供養塔の台座で、中央に蓮の絵が立体的に彫り込まれています(写真上)。供養塔の笠の部分を逆さにして積まれている石垣も付近に見ることができます。その数は約60個を数えます。これらは他の場所で使用されていた石で、築城のために運んできたものです。これを転用石(てんようせき)と言います。
このような現象は、和歌山城に限らず、戦国の城に多く見られます。信長の旧二条城(京都市)には石仏や墓石が、明智光秀の福知山城(京都府福知山市)天守台は、石塔類で埋め尽くされています。また、秀吉の弟・秀長の郡山城(奈良県大和郡山市)天守台の石垣には、お地蔵さんが頭から突っ込まれ、「逆さ地蔵」と呼ばれています。
このように転用石には、宗教的遺物が多いことから、後世、信長が比叡山延暦寺の焼き討ちなどの史実と結びつけて、神仏を恐れない姿勢を表したものだと言われてきましたが、確かなことではありません。また、供養塔の笠を逆さにして積むのは、この方が石積みとして、安定感が増すからです
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和歌山城には、供養塔以外の転用石もあります。裏坂を登りきったところが本丸裏門跡で、6個の柱の土台石(礎石=そせき)が並び、城門のあったことを伝えています。その中に中央が円形状に盛り上がった石を見かけます(同下)。これも転用石で、形状から寺院の柱を乗せていた礎石と言われています。
石垣に転用石を用いたのは、石不足だからとよく言われますが、信長・秀吉の時代は、築城を急いだので、神仏を敬う心のゆとりなどなく、手っ取り早く近くの石塔類などを運んで使用したというのが、本音だったように思われます。
(ニュース和歌山より。2017年5月6日更新)