お城の表側を大手、裏側を搦手(からめて)と言います。いずれもお城の重要な出入り口です。大手側の大手門前には、大手道(大手筋)が造られていました。大手道は、権威の象徴である天守に向かって進む道なので、天守が見通せるように、道幅を広くしてありましたが、大手門に直接つながることはありません。大手道から城内を見通せないように、どのお城でも、門と道を少しずらすのが通常でした。これに対して、裏側の搦手門は、見栄えより厳重さが求められたので、城門も小さく、道幅も狭く造られました。
和歌山城の大手門は、公園前バス停前の門を言いますが、1796(寛政8)年までは、市ノ橋門と名付けられていました。門は高麗(こうらい)門と呼ばれる形式ですが、1909(明治43)年に倒壊し、以後、1982(昭和57)年に昔の姿に復元されるまで、門のない光景が続いていました。
お城は、一般的に内郭・外郭・城下町と三区画に分かれます。それらの区画にも出入り口は当然存在しましたから、和歌山城の玄関も一ノ橋の大手門一ヵ所とは限りません。その大手門の北方にあった三ノ丸の玄関が京橋門で、 「京橋大手門」ということになります。他城では、「三ノ丸大手門」と呼ぶ所が多く存在します。
京橋のさらに北方の本町(現在の本町9丁目あたり)に、もう一つの大手門がありました。城下町北側の玄関口で「本町大手門」と言い、のち「北大手門」と改称されます。江戸時代の地誌書『紀伊国名所図会』には「本町御門の外・広小路の景」と題して、石垣に囲まれた奧に、城門の大きな屋根が描かれています。現在は、城門特有の屈曲部分が道路となって残るに過ぎません。
本町の北大手門をくぐると、広い一直線の道が天守を遠望しながら、三ノ丸の京橋門に向かいます。さらに京橋門の内側から一ノ橋の大手門に向かって大手道は続きます。つまり、和歌山城には大手門が三ヵ所、大手道が二筋あったということになります。
写真=三ノ丸大手の京橋門跡と石碑
(ニュース和歌山/2017年10月21日更新)