天守閣の東峰に徳川期の和歌山城本丸御殿がありました。豊臣(桑山)期と浅野期の二ノ丸にあたる場所です。その敷地の側面に積まれた石垣は、豊臣期の特徴である緑泥(色)片岩を用いた野面積み(自然石をそのまま用いた石積み)が大半ですので、何かしらの建物が豊臣期にあったと想像できます。

 徳川期になると浅野期の二ノ丸御殿(1月6日号掲載第21回)をすべて取り払い、五角形の敷地いっぱいに建物を建て、本丸御殿と名付けました。御殿の周囲は浅野期と違って櫓はなく、土塀囲みの中に、遠侍(とおざむらい=警備などにあたる武士の詰所)・大広間と書院、そして料理之間と蔵などがありました(和歌山御城内惣御絵図)。しかし、本丸御殿は、初代頼宣の時と14代茂承(もちつぐ)の妻・倫宮(みちのみや)則子(伏見宮家)が、本丸御殿に住んだ幕末の時以外はほとんど使用されることはなかったようです。

 御殿地の野面積み石垣の一角に、花崗斑岩の石材を用いた切込接(きりこみはぎ=石材を加工して接する石との隙間をなくす石積み)の高度な石積みが見られます。おそらく倫宮入居にあたり、修復したと思われます。これ以降、当御殿は「宮御殿」とも呼ばれるようになりました。1880(明治13)年にその一部が、和歌山市大垣内の光恩寺に移築されましたが、工事中の台風で倒壊したそうです。

 和歌山城天守閣に向かう表坂を上り切ったところから西に細長い松ノ丸が続きます。右手に野面積みの石垣を見ながら天守閣に向かいますが、この石垣の上に、本丸御殿の石垣が積まれているのです。その御殿の中庭にあった名残が、松ノ丸に移されています。目立つようで、見過ごしてしまいそうな「七福神の庭」です。七福神(七柱の福徳の神)が船に乗っている姿を表しています。

 現在の本丸御殿跡は、和歌山市水道配水池になっているため中に入れませんが、この建設に伴ってかさ上げがなされたので、実際の御殿地より倍近く高くなっています。その分、当地から眺める天守閣の姿は最高で、最近撮影用の場所がつくられました。

写真=天守閣から本丸御殿跡をみる

(ニュース和歌山/2018年1月20日更新)