一ノ橋の大手門を潜(くぐ)り、石垣に沿って直進するとやがて石垣は右に、そして左に折れていきます。そこが一中門の跡です。同じような構造をした城門跡が、岡口門を潜った右手(北方)方向にある岡中門跡にも見られます。いずれも門前の通路が屈曲しており、大手門と違って、先方を見通す事ができません。
お城の出入口(城門)を「こぐち」と言います。広い曲輪(くるわ=区画)に対して、出入口が小さいので「小口」なのです。多勢の敵を一気に侵入させない工夫の一つですが、この小口を屈曲させて、攻め入る敵を四方から攻撃が出来るような構造(桝形=ますがた)が、主な小口に造られていきました。敵側にすれば、小口はきわめて危険な所になります。
危険な所を「虎口(ここう)」と言います。虎口は、古代中国の故事によるもので、世の中に怖いものはないという大泥棒が、虎が口を開けて追いかけてくる事が最も怖いと言ったとの事が語源とされます。これを江戸時代の軍学者が、危険な場所の意味である「虎口(ここう)」から、小口の「小」を「虎」に変えて「虎口(こぐち)」と表記したと考えられます。
一中門は、本丸への通路であり、二ノ丸の入口に当たる大変重要な位置にあります。右折れの石垣に沿うと突然左に大きな櫓門の一中門が現れます。この門前の折れ石垣の空間(桝形)に立つと、左右の石垣(土塀)上からと正面の櫓門から攻撃を受けてしまいます。その後方には、太鼓櫓がにらみを利かせていましたから、四方が塞(ふさ)がれてしまう恐怖の虎口(こぐち)になってしまうのです。
一中門前の重要な監視場所に建つ太鼓櫓は、二ノ丸の東南隅に当たります。最初は大時計が置かれ、「時計櫓」と呼ばれていたのですが、1796(寛政8)年、時計から太鼓に変わり「太鼓櫓」と改称したそうです。当櫓は時や急を知らせるだけでなく、一中門と連携した重要な守りの要(かなめ)の櫓だったと推測します。
写真=一中門跡と太鼓櫓台(右手前)/図=折れ石垣の空間で城内を防御する
(ニュース和歌山/2018年2月17日更新)