和歌山城の南側、三年坂から城内駐車場へ入るゲートあたりに不明門(あかずのもん)がありました。門は大正4(1915)年に崩壊したそうですが、三年坂門の名で、一ノ橋大手門のような脇戸付の高麗門が絵葉書に残されています。その写真(写真上)は門の説明板で見る事が出来ます。不明門は「尿汲取人や死者などを出入りさせる門」(『広辞苑』)として造られ、多くは「不開門」と記されます。
江戸時代の地誌『紀伊国名所図会』に描かれた三年坂は、急坂を行きかう庶民の姿が見られ、にぎわいを感じさせています。しかし、『南紀徳川史』には、不明門は寂しい場所で、松などがうっそうと生い茂り、昼でもうす暗いとあります。その不明門脇の高櫓台の向かいには「お留め藪」という竹林があったとも書かれています。さらに「不明門内には隧道の備えがあるが、極めて秘密のことなので、口外してはいけない」と記したあとに、斎藤桜門という人の話として「(隧道に)少し入ってみたが、暗くてどこに通じているのか、何のための一本道かということも絶えて、知る人はいない」とあります。この「一本道」が「間道(かんどう)」のことと思われます。
間道とは、抜け道のことで、姫路城西ノ丸西部の原生林に残されています。和歌山城にも存在していたとすれば、竹藪の中に造られていたということになり、それが「お留め藪」だったのでしょう。『南紀徳川史』の別項に、これは紀州徳川家菩提寺の長保寺(海南市下津町)への間道で、岡山を通って、寺町通りの三光寺と護念寺の境に残るのはその証だとあり、簡略な地図が添付されています。長保寺までの距離を考えると真実味は薄いですが、不明門から寺町道となれば、まんざら否定もできない距離です。
現在も両寺の境に大溝があり、添付図と一致しますが、図には「間道筋」と書かれているだけで、これが間道の名残だと断定できません。秘密の道ですから「不明(あかず)」の話は、閉じておいた方がいいのかも知れません。
写真下=間道の名残か? 護念寺と三光寺の溝
(ニュース和歌山/2018年5月19日更新)