通称「赤門」で親しまれ、砂ノ丸への入口である追廻(おいまわし)門は、和歌山城の西口にあたります。その城外の扇ノ芝に馬場があり、そこで馬を追廻していた事が門名の由来と思われます。今は馬に変わって、バスなどが往来する幹線道路となっています。
昭和60(1985)年の解体修理で追廻門は、赤色であったことが判明したそうです。それ以後、門は赤く塗られています。赤い門は、徳川家から輿入れがあった場合に、白木の門を赤く塗ったそうですが、赤門を持つ飯田城(長野県)と鹿島城(佐賀県)には、そのような例はないのだそうです。そこで考えられたのが裏鬼門説です。
家相で北東は鬼が出入りするとして万事に忌み嫌う「鬼門」方向でした。藩主が住む二ノ丸の「御座ノ間」から見て、南西方向に追廻門は位置します。つまり鬼門の裏側で「裏鬼門」になるのです。そこで鬼門除けのために追廻門は赤く塗られたと考えられるようになりました。
徳川期の城郭拡張時に造られた追廻門の正面には、城内が直視できないように蔀(しとみ=目隠し)石垣があります。その石垣には、比較的大きな石を用いています。また、門をくぐった右側の石垣は、砂ノ丸門の石垣に続きます。その角近くに鏡石があります(2018年3月3日号「権威を示す鏡石」参照)。鏡石は、もとは悪気払いのために置かれた大石だったことを考えれば、裏鬼門にあたる追廻門を赤く塗り、それに続く石垣に大石を用いた理由が成り立ちます。
『紀伊国名所図会』に描かれた追廻門前の風景は、待合所の藩士の供姿、大きな風呂敷包みを背負う人、また天秤棒で大きな壺を担ぐ商人。そして、遊ぶ子どもと会話を楽しむ女性。さらに、子どもの手提げ籠から大きな魚(鯛)をつかんで飛び去るトビを見上げる往来の人々の姿が見られます。このように『同図会』には、大手口(北側)以外の城門近くを庶民が自由に往来する平和な光景がうかがわれます。
絵=追廻門前の往来(『城下町の風景』より)
(ニュース和歌山/2018年6月2日更新)