天守への急坂を登り切れば、藤棚のベンチや「お天守(てんす)茶屋」で一息つける天守前の広場に着きます。今でこそ憩いの場所ですが、往時は「天守下ノ段」と呼ばれた厳重な守りの広場でした。
幕末に描かれた「和歌山御城内惣御絵図」(和歌山県立図書館蔵)による天守下ノ段は、ほぼ中央で東西に走る塀で二分され、塀の中ほどに大きな建物が描かれ、「御蔵」と表記されています。万一、敵が天守一ノ門から攻め登って来ても、天守の裏(北側)を周回する帯曲輪は、東側の天守曲輪門と西側の小門で、完全な防御壁が造られていましたから、天守下ノ段の二分された北側の狭い空間に入ると逃げ口がないのです。その頭上には、天守の石落(いしおとし)や銃眼が並んでいました。
南側は櫓で囲まれた空間で、家臣が駐屯できるほどの番所東櫓と番所西櫓がありました。この両櫓は多門櫓で結ばれ、北側の空間に入った敵の背後から攻めることも可能な造りでした。中でも番所東櫓は、本丸表門から中ノ門に至る急坂を正面ににらむ位置にあります。今は、櫓跡の北寄りに藤棚がありますが、往時は本丸の東方を見張る重要な役割を担っていたと考えられます。その役割は、番所西櫓も同じでした。新裏坂を登り、最後の左に折れる階段にさしかかったところで、番所西櫓の石垣角を間近に見る事が出来ます。新裏坂が造られる以前は、東櫓同様容易に登ることが出来ない高さだったと思われます。
この狭い北側の空間には、天守への最後の関門「天守二ノ門」が待ち構えていました。かつては総楠造りだったので、「楠門」と呼ばれたそうです。現在は、門扉と鏡柱が楠だそうですが、今でも楠門の名で親しまれ、朝に開き、夕に閉じる役割を担っています。
天守下ノ段から見上げる天守は、紀州徳川家の城となった時は、板張りの黒い天守(2017年7月1日号「戦国の黒い天守」参照)で、現在のように白い天守になるのは、まだまだ先の事でした。
写真=上=天守下の略図/下=番所西櫓台石垣
(ニュース和歌山/2018年7月7日更新)