「防災の日」にあたり、日ごろからの備えの一助として、災害を経験した人の話に耳を傾けてもらおうと、1946年の昭和南海地震で津波を目の当たりにした海南市鳥居の辻登さん(90)に体験談を聞いた。

昭和南海地震経験した辻登さん

 12月21日午前4時19分、今と同じ同市鳥居の自宅2階で寝ていた辻さんは、大きな揺れで飛び起きた。当時、18歳。「家がギシギシと音を立て、外からは屋根瓦が滑り落ち、近所の家が倒壊する音が聞こえてきた。恐怖に頭から布団をかぶりました」

 揺れが収まると、近所の田へ避難した。すでに200人ほどが集まり、たき火で暖を取っていた。地域の古老が「津波来えへんか?」と言ったものの、周りからは「来えへんよ」と心配する声は出なかった。

 家に戻る者が出始めた約30分後。浜の方から一人が走ってきて叫んだ。「津波や!」。その言葉に、現在、内海小学校がある小高い場所まで急いで避難した。走る自分たちの後ろ、海のある西側から来る津波は逃げられた。しかし、予想外のことが起こった。大水は自分たちの前、山のある東側から押し寄せた。津波が川を逆流し、川幅の細くなったところから町中へあふれ出した。「和歌山は西が海。しかし、川をさかのぼった津波は、東からも襲ってくるんです」

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 「災害の経験を次世代に伝えるのが自分たちの役割」と話す辻さん。「津波が来ると聞いたら、すぐに高い場所へ逃げること。〝防災〟でなく、〝逃災〟が重要です。国、県、市が様々な会議を開いてますが、防災に関して言えば、最も大事なのは家族会議。自分の家からどこを通って、どこへ逃げるか。必ず家族で防災計画を設計してほしい」

写真=津波で市街地に打ち上げられた船(『海南市政施行70周年記念誌 写真で綴る海南市の歩み』より)

 ※昭和南海地震…県内で死者・行方不明者269人、住宅の全壊969軒、流失325軒、焼失2399軒。地震と津波、火災で大きな被害を及ぼした。辻さんの住む海南市でも、死者・行方不明者23人を出した。

(ニュース和歌山/2018年9月1日更新)