突然の脳出血に襲われ、手術は成功したものの、右手、右足は動かず、記憶も曖昧。加えて、言語障害を負い、歌うどころか、しゃべることすらままならない。「生活から音楽を締め出そう」と考えた。
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ジャズ歌手だった記憶がない私にとってつらかったのは、歌えないことではなく、幼い娘の世話を十分できないことでした。娘の名前を呼んでいるつもりでも、うまく言えず、顔を背けられたこともありました。オムツを換えるのは車いすに乗った状態で、しかも利き手の右手が使えないので、左手と口を使って交換しました。
娘が言葉を覚えるのに合わせて、私の言語障害は少しずつ治っていきました。通院しながらリハビリを続け、症状が緩和し始めた2009年6月、担当医から「来月ある診療所の納涼祭で歌ってみませんか?」と勧められました。このころ、声は出せるようになっていました。でも、まだ音程を取るのは難しい。迷った末、出演を決めました。
復帰に向け、様々な曲を練習しました。その様子を見聞きしていた3歳の娘が、ふと『テネシーワルツ』の最後の一節を口ずさみました。よし、この曲にしようと決めた瞬間、小学6年生の時、初めて覚えたスタンダードジャズが『テネシーワルツ』だったことがポンと思い出されました。大切な記憶が1つ、よみがえりました。
1ヵ月間、厳しい発声練習を重ね、迎えた本番。過去に経験したことのない緊張感の中で歌いました。観客は約50人でしたが、私にとっては5000人、いや5万人を前に歌った気分でした。
歌い終えた後、ジャズシンガーとしての私の姿を知らなかった娘に「ママ、上手だったよー」と言われました。笑いながらも、うれし涙が止まりませんでした。
写真=10月末のライブ、最後の曲に選んだのも『テネシーワルツ』でした
(ニュース和歌山/2018年11月14日更新)