和歌山市大垣内の光恩寺庫裡は、玄関が建物の大きさに比べて小さく、外壁の太い柱間は白漆喰で塗り固められ、まさに城郭建築の様相です。1880(明治13)年、和歌山城本丸の御殿を本堂に、御殿の台所を庫裡として、当寺に移築されました。その翌年、移築工事中の暴風雨で御殿は崩壊したそうですが、台所は今も和歌山城の名残を伝え、和歌山市の文化財に指定されています。その玄関の内側には、かつての門扉がそのまま取り付けられた状態で保存され、室内には御殿にあったという虎の絵などが描かれた杉戸も残されています(非公開)。
明治維新を迎えて間もない1873(明治6)年、全国の城郭を所管していた陸軍省が、お城の役割は終わったとして、廃城にしました。この時、城内の建物は民間に払い下げられ、天守や櫓の大半は解体されてしまったのです。和歌山城もこの例に漏れず、天守は残りましたが、二ノ丸御殿(「江戸城を模した二ノ丸」参照)や大手門とそれに続く櫓などが、移築されたり取り壊されたりしました。
和歌山市和歌浦東にも和歌山城の城門が伝えられています。通称女中門と言われ、宗善寺の山門として残されています。近年の本堂火災時にも延焼を免れ、本堂再建時にも取り壊されることなく、大切に守られています。この「女中門」の「女中」を、奥向き(大奥)に奉公していた御殿女中を意味すると考えれば、当門は御殿内(二ノ丸御殿など)に存在していたのかも知れません。それを伝える記録はないようですが、屋根の四隅には、桃型の留蓋(「お守りと天守の威厳」参照)と葵紋が刻まれた鬼瓦が載っています。
さらに和歌山市直川の個人邸にも、和歌山城多門櫓と語られてきた建物があります。その後の調べで、軒瓦の紋様から和歌山城下の佐野家上屋敷の長屋門ではないかとされましたが、岡山丁の長屋門同様(岡公園東端)、1945(昭和20)年7月9日の大空襲で、城下の面影を失った今、往時の面影を知る貴重な建物に変わりありません。
写真=光恩寺庫裡
(ニュース和歌山/2018年12月15日更新)