和歌山市内に、湊御殿一丁目から三丁目の町名があります。その名の通り、ここに和歌山城に関係深い「湊御殿」と言う藩主の別邸がありました。

 藩主の隠居所として造られた西ノ丸御殿は、初代頼宣が使用したものの、二代藩主光貞は湊御殿を隠居所として移り住みました。正確な築造年代などは分かっていませんが、八代重倫(しげのり)も、十一代斉順(なりゆき)も湊御殿を造営しています。中でも斉順の湊御殿は、和歌山城二ノ丸御殿に匹敵するもので、表・中奥・大奥を配し、約150部屋もあった壮大な御殿だったのですが、1853(嘉永6)年、十三代慶福(よしとみ)の時、本城へ戻り政治を行うよう命ぜられ、湊御殿はさびれていった(三尾功『城下町和歌山夜ばなし』)そうです。その湊御殿の一部が、養翠園(同市西浜)の「湊御殿(奥御殿)」(見学可)と感応寺(同市鷹匠町)の離れ(非公開)に見る事ができます。離れの天井には極彩色の大きな孔雀、壁には松と鶴などが描かれ、「御座の間」の雰囲気を味わえます。 

 十代治宝(はるとみ)は、西浜の地に広大な御殿(和歌山工業高校付近)を築き、他の藩主も吹上御殿、浜御殿、北島御殿(各同市)などを建てていますが、残念ながらこれらの面影は残されていません。

 御殿は、城下町の外にもありました。参勤交代時や客人などが必ず利用したという山口御殿(同市里、山口小・幼稚園)や頼宣の隠居所を想定して築かれた陽山御殿(紀の川市東野)、鷹狩時の宿泊所であった粉河御殿(同市粉河、粉河寺大門西側)。さらに湯治目的の瀬戸御殿(白浜町瀬戸)など様々な目的で17ヵ所に設けられていました。

 中でも吉宗が幼少のころ、川遊びを楽しんだと伝わる「巖(岩)出御殿」(岩出市清水)の建物は、横浜市中区の三溪園に「臨春閣」の名で移築されています。内部すべての見学は出来ませんが、説明板には紀州巌出御殿の建物と書かれています。

写真=横浜市に残る「巖(岩)出御殿」

(ニュース和歌山/2019年1月5日更新)