明治維新後、大手門(現在・復元)や不明門は自然倒壊してしまいましたが、岡口門と追廻門は残りました。石垣も吹上口付近はかつての面影をなくしていますが、それ以外の石垣はよく残されています。全国のお城は、1872(明治5)年に陸軍省の管轄になり、軍は全国のお城を調査して、残す城と壊す城を決めたようです。近年その絵図が発見され「陸軍省絵図」(富原文庫蔵)と名付けられています。和歌山城はその絵図集の中には含まれていませんが、大正時代に、堀川(市堀川)と真田堀以外の南北に延びる東の外堀(屋形川・堀詰川)と西の外堀(西ノ丸川)は埋め立てられてしまいました。これにより、外堀と内堀との繋がりが消え、紀の川から外堀、内堀へと繋がる水路(水堀)を、荷を積む船が往来していた往時の様子を想像することすら難しくなってしまいました。
一ノ橋から西を眺めれば、二ノ丸の石垣に沿う水堀(北堀)が目に映ります。普段何気なく見つめている光景ですが、この内堀もかつては、今我々が見る以上に広かったのです。現在は幅約25㍍ですが、元は幅約41㍍あったそうです(三尾功著『城下町和歌山夜ばなし』)から、約16㍍も幅の狭い堀を一ノ橋から眺めていることになります。これは明治末期と1939(昭和14)年の電車軌道(市電)敷設に関わって、道路が拡張されたからだそうです。
さらに南堀(三年坂堀)も1924(大正13)年に東寄りが埋められましたが、西寄り(不明門寄り)が残されているので、その形態は見て取れます。さらに、岡口門前の広い東堀も昭和40年代に埋め立てられましたが、市民などの反対で、早々に元の姿に戻され、往時の姿を最もよく残した内堀風景となっています。
城下町図などを片手に散策すると、道路の微妙な高低差に堀跡を知ることがあります。ほかにも思わぬ発見に昔日の様子を楽しめるかも知れません。
写真=道路の車列付近まであった北堀
(ニュース和歌山/2019年1月19日更新)