明治時代以降、城内には県庁や市役所、そして広い曲輪を運動場にして学校などが建てられました。このような例は全国の近世城郭に共通することで、和歌山城に限られたことではありません。
和歌山城の管理が陸軍省から和歌山市に移ると、当時国宝だった天守の観光目的で、近道として和歌山城と無縁の新道が造られました。それが「新裏坂」です。同じように和歌山城の歴史と無関係のものは他にもいくつかあります。大手門から岡中門跡まで続く石畳は、1971(昭和46)年の黒潮国体前まで走っていた市電の軌道に敷かれていたものです。今では新裏坂同様、すっかり城内の風景に溶け込んでいます。
その石畳に沿って伏虎像まで進んだ近くに忘れてはならない痕跡「防空壕の跡」があります。太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、城内は写真撮影禁止となるなど軍事色が一段と強まります。その年と終戦間もない1945年、陸軍は城内の表坂下に2ヵ所、鶴ノ渓に3ヵ所の横穴式防空壕が掘られ、1969(昭和44)年に、その閉鎖工事が行われたと『史跡和歌山城保存管理計画書』(和歌山城管理事務所)の年表にあります。それらの正確な位置はわかりませんが、伏虎像の背後に1ヵ所、その名残を知ることができます。大手門から石畳を歩き、伏虎像を右(西側)に見て、少し過ぎた辺りの山裾に岩盤をくり抜いた入口跡があります。入口を塞いでいた石垣が、最近の相次ぐ台風や大雨で崩落し、その形状は以前よりわかりやすくなっています。また、伏虎像背後の石垣の上部を見ながら西に歩くと、石垣が内側に窪んだ不自然な箇所が複数見られます。防空壕の空気穴を埋めた跡だそうです。
防空壕内で、天守に爆弾が落ちた時の恐怖を味わった。防空壕にやってくるとすでに避難した人でいっぱいで入れなかった。壕内の天井からは水が滴り落ちていたことなどの体験や内部を語る人が、本当に少なくなってきました。
写真=伏虎像近くの防空壕入口跡
(ニュース和歌山/2019年2月2日更新)