草木や樹木が石垣を隠し、蓮が水堀の水面を覆う。そんな光景は今の和歌山城からは想像もできません。また、二ノ丸跡にあった放送局のアンテナが、公園のシンボルのように語られたことも、二ノ丸が野球場であったことも、もう随分と昔のことになりました。
それより以前の大正時代、城内の公園整備計画などが論じられた中には、一中門や岡中門の桝形石垣を徹去する案や道路を城内の東西に貫通させる案、さらにロープウェー設置など奇抜な計画があったようです。それがどこまで本気だったのかわかりませんが、市民の反対で、現状の姿が守られました。
昭和40年ごろからは野球場をはじめ、他の城内にあった建物も徐々に移転し、水堀や石垣の風景が随分と変わりました。今では、二ノ丸は憩いの広場となり、砂ノ丸や西ノ丸の広場は、いろんな行事の場として開放され、桜や紅葉の季節以外にも大勢の人でにぎわうようになりました。
その一方で、発掘調査による専門的な調査も行われ、その都度、現地で説明会が開催され、土の中に眠る大切な遺構の存在を教えてくれます。
その一例が二ノ丸跡の西寄りに見られます。簡単な柵で囲まれたところに「2009年度の発掘で確認された漆喰(しっくい)池があります。漆喰池は大奥御殿の坪庭に設けられたもので、漆喰を厚く塗り固めたひょうたん形の人工池です」と解説板が吊るされています。
この池には、観賞魚(金魚など)の寝床や中央部で小島なども見つかり、江戸時代後期の絵図「和歌山二ノ丸大奥當時御有姿之図」に描かれた図と一致する内容も絵図と共に記されています。
このような遺構は、柵内だけではありません。その近くには、浅野時代の石垣も眠っています。言わば、その周辺には、和歌山城のタイムカプセルが埋まっているのです。いつしか公開される時まで、土の中で保存されます。
このような大切な和歌山城の宝物の上を私たちは、歩いたり、走ったりして楽しんでいるのです。
写真=二ノ丸の漆喰池保存箇所
(ニュース和歌山/2019年3月2日更新)