百年以上にわたり、紀の川の北と南を往来する人々を見守ってきた南海橋がきょう深夜零時、通行止めになる。多くの人の思い出に残る橋が、その歴史に幕を下ろす。(2003年9月24日号より)

撤去される直前の南海橋、奥は紀の国大橋

 紀北を東西に流れる紀の川は江戸時代、城下町を防衛する観点から橋が架けられず、渡し船で両岸を行き来していた。明治以降、人口増加と共に橋の需要が高まり、南海橋は造られた。木造だったころは何度も洪水で流され、通行料として徴収された1銭にちなみ市民から「一銭橋」と呼ばれた。西隣に紀の国大橋が完成した2003年、その役目を終えた。

繰り返す流失

 『海草郡楠見村郷土史』(1911年)によると、南海橋があった場所に初めて橋が架かったのは1874年ごろ。楠見村の土橋市次郎と楠見太郎左衛門が官許(国の許可)を得て嘉家作丁と粟を結び、通行料として2厘徴収し、橋を経営した。
 約10年後に廃業し、橋は洪水で流失したが、1898年に南海鉄道が和歌山市駅へと通じる紀の川鉄橋建設のため資材を運ぶ仮設橋を造り、南海橋と命

改修後も一部木造部分が残った(1982年撮影)

名。鉄橋完成後、南海橋は管理されなくなり流されたが、楠見村村長や和歌山市民が協力して再建し、通行料を徴収することで橋の維持管理を図った。楠見村が和歌山市に編入される1942年まで、1銭を払わなければ渡れなかった。
 橋脚がコンクリートで固められた1962年以前は木造で、橋脚が低かったため何度も洪水で流された。楠見地区の地誌を研究する小田切勇作さん(88)は「海草中学へ通った42年は有料でした。台風が来れば流され、その都度架ける場所が少し変わりました」。同地区で生まれ育った楠見幸子さん(69)は「足元の木が欠け、手すりが低かったので渡るのが怖かった。たばこのポイ捨てで橋が火事になる騒ぎもありました」と振り返る。
 62年以降も手すりなど一部が木造だった。72年に同市市小路へ嫁いだ北方平子さん(65)は「歩いて渡ると、川のせせらぎや川面で跳ねる魚など、川を身近に感じられましたが、車だと橋の入口の信号で交互一方通行だったので慌てて渡りました」。

心に架かる生活の橋

 2003年、南海橋の西隣に紀の国大橋が開通した。一方、老朽化が進んだ南海橋はその役割を終え、撤去されることになった。本紙は読者から思い出話を募り、「長い歴史が閉じられ運命とも思いますが、感慨深いものがある」「南海橋は堂々とした母のように見守ってくれた」と別れを惜しむ市民の声を伝えた。
 橋の撤去から10年。通勤、通学で多くの学生や会社員が利用する紀の国大橋は来年度、第二阪和国道と接続する。道幅は約3㍍だった南海橋に対し16・5㍍に、車道は4車線に広がり、安全性が向上したことから、「安心して渡れる」「大阪へ行きやすい」と歓迎の声が多く聞かれる一方、「堤防と同じ高さの南海橋の方が生活の橋という感じだった」と懐かしむ声は少なくない。
 小田切さんは南海橋が撤去される3年前に『楠見郷土誌』をまとめ、橋の歴史を記録した。「百年もの間、市民に愛されてきた南海橋の面影を見ることができないのは寂しい。何とかして記録に留めたかった」。時と共に薄れる記憶は、人と川の歴史の一ページとして確かに刻み込まれた。

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ニュース和歌山2014年10月4日号掲載